1955年、「ママ横をむいてて」で映画デビューすると、以降、50年以上、女優として活動し、夫で映画監督の大島渚さんが病に倒れた後は、17年にも渡って大島さんの介護をし、その経験を綴った著書を出版するほか、講演活動も行った、小山明子(こやま あきこ)さん。今回はそんな小山さんの生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

小山さんは、1935年1月27日生まれ、
神奈川県横浜市鶴見区の出身(千葉県生まれ)、

身長160センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
誠之国民小学校
⇒呉服国民小学校
⇒鶴瀬国民小学校
⇒鶴見中学校
⇒神奈川県立鶴見高校
⇒大谷学園横浜ドレスメーカー女学院(現・横浜高等教育専門学校)

趣味は、
落語鑑賞、麻雀、競馬、水泳、

ちなみに、本名は大島明子(旧姓は臼井)です。

幼少期は病弱ながらも活発だった

小山さんは、貿易会社に勤めるお父さんのもと、5人兄弟(兄が4人)の末っ子として誕生すると、2歳の時には、お父さんの仕事の関係で、朝鮮に渡り、そこで約1年間過ごしたそうですが、子供の頃は、疫痢(えきり)、ジフテリアなどを患うなど、よく病気になったそうです。

(お姉さんも1人いたそうですが、生後3日で他界したそうです)

ただ、その一方で、お兄さんの後を追いかけて遊ぶ、おてんばで、物おじしない活発な女の子だったそうです。

戦時中は1人で縁故疎開していた

そんな小山さんですが、小学1年生の時には、太平洋戦争が始まって次第に空襲が激しくなり、お母さんの実家がある大阪府池田市に1人で縁故疎開することになったそうですが、

(お兄さんたちは学童疎開したそうです)

疎開した家はすぐそばに軍需工場があったため、学校からの帰り、友達と歩いていると、機銃掃射を受け、その友達と命からがら桃畑の中に逃げたこともあったそうです。

(※機銃掃射とは、機関銃で敵を薙(な)ぎ倒すように上から下に向けて射撃することで、特に戦闘機が地上の人間や建物に向かって機銃で射撃すること)

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終戦直後には母親が他界

そして、やがては、隣の豊中市にも爆弾が落ちたそうで、せっかく空襲を避けて疎開したにもかかわらず、恐ろしい状況となってしまったことから、どうせ死ぬなら家族一緒にと思ったお母さんに、小山さんとお兄さんたちは疎開先から呼び戻されると、さらに遠縁を頼って、埼玉県の鶴瀬村(現・富士見市)に一家で疎開したそうです。

その後、小山さんは、1945年8月15日、国民学校4年生(10歳)の時、終戦を迎えたそうですが、ほっとしたのも束の間、お母さんが倒れ、胃ガンのため、42歳という若さで他界したのだそうです。

(お母さんは、太平洋戦争が始まった1941年に、胃潰瘍の手術をしていたそうですが、戦時中だったため、満足な治療ができず、さらに、生活の気苦労などが重なり、病状が悪化していたそうです)

ちなみに、小山さんは、そんな戦争中の体験について、

戦争中はいろいろなことがありました。生きるのに大変な時代でしたけれど、どこの家も同じだったから、特別苦しいとか、つらいとかは思いませんでしたね。だからあの時代を生きた人間は強いのだと思います。

と、語っています。

「小山明子の若い頃は「ママ横をむいてて」で映画デビュー!」に続く

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