1996年、夫の大島渚さんが脳出血で倒れ、車椅子生活を余儀なくされたことで、ウツ病になりつつも、献身的にその介護をしていたという、小山明子(こやま あきこ)さんですが、その後、大島さんが「介護5」になると、その介護はさらに過酷なものに。そして、大島さんが他界した後は、今度は、小山さん自身も立て続けに大病を患ったといいます。

「小山明子は夫・大島渚の介護でウツ病となり何度も自殺を考えていた!」からの続き

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夫・大島渚が再び倒れ「要介護5」に

1996年に脳出血で倒れた、夫の大島渚さんですが、本人の懸命なリハビリと、小山さんの献身的な介護で、1999年には、映画「御法度」を撮るまでに回復したそうで、これからは、平穏な日々となるかと思われるのですが・・・

(「御法度」は、「第9回淀川長治賞」「第1回文化庁優秀映画賞」を受賞するほか、「カンヌ国際映画祭」でも高い評価を得ました)

2001年には、「多発性脳梗塞」「十二指腸潰瘍せん孔」に襲われ、一命は取り留めたものの、「要介護5」となり、さらに過酷なリハビリの日々が始まったそうです。

前回の介護体験から気持ちを強く持つも夫・大島渚が別人格に

そして、同時期、追い打ちをかけるように、何十年も働いてくれていた70代のお手伝いさんも入院してしまったそうで、大島さんの介護は、全て、小山さん一人の肩にのしかかかったそうですが、

それまでの、4年間のウツ体験から、周囲に頼ることを覚えるほか、ここは何とか乗り切らなければと気持ちを強く持つことができたそうです。

ただ、前回のリハビリの時には、ことある事に「ありがとう」と言っていた大島さんが、この頃から、車椅子の押し方が悪いと言っては、「このバカ女!」と罵声を浴びせるようになったほか、

おむつをつけなければならなくなると、「バカにしやがって!」「死んだほうがましだ!」と叫び、まるで別人格になってしまったそうで、さすがに、小山さんも、この時は辛かったそうです。

それでも、小山さんは、大島さんが十二指腸の手術の時、最悪のことまで覚悟していたことから、自分に八つ当たりしてストレスを発散することで、少しでも長生きしてもらいたいと思ったのだそうです。

ドイツの哲学者アルフォンス・デーケン神父の言葉「手放す心」を実践していた

また、小山さんは、この頃、偶然、新聞広告で、ドイツの哲学者・アルフォンス・デーケン神父の「よく生き よく笑い よき死と出会う」という一冊の本と出会い、その中に出てくる「手放す心」という言葉が心に響いて、抱えているものを手放すことを実践すると、女優の代わりはいくらでもいるが、大島渚の妻は自分一人だけだという、これまで見えなかったことに気づき、感謝の気持ちがこみ上げて来たそうで、

女優として過去の栄光にとらわれるのはやめ、1人の闘病する人間の妻として1日1日を笑って生きようと思うようになり、そんな気持ちで介護に励むようになったのだそうです。


よく生き よく笑い よき死と出会う

夫・大島渚が他界

そんな小山さんの献身的な介護の甲斐もあり、大島さんは、2010年10月30日には、かねてより、夫婦の念願だった金婚式(結婚50周年)に出席することができるまでに回復したそうですが、それから3年後の2013年1月15日には、「肺炎」のため、80歳で他界されたのでした。

(大島さんが他界したのは、小山さんが18年ぶりの出演となった舞台「女のほむら」の初日の前日で、小山さんは、大島さんの最期を看取ることができたそうですが、その翌日には、舞台を務めたそうです)

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夫・大島渚亡き後は自身が次々と大病に襲われるも復帰し現在は終活中

その後、小山さんは、2017年には、「乳ガン」を患い、両乳房の全摘出手術を受けると、その後も、「心臓の病気」「脊柱管狭窄症」(せきちゅうかんきょうさくしょう)、「肺ガン」と、次々と大病にかかり、何度も手術を繰り返しているのですが、

残りの人生をより良く生きるために終活を始めたそうで、葬儀、お墓、遺言、遺産相続などの準備をするほか、

2人の息子さんには、

(もしも自分が認知症になり)ある日突然、『あなたはだあれ』と言ったとしても、私の心は生きているからね。『大好きだよ』と言って手を握ってちょうだい

と、伝え、

また、自宅で大島さんを看取ったことで、その大変さをよく理解しているため、同じような思いを息子夫婦には味わわせたくないとの思いから、

  • 介護の専門施設に入れて欲しい(それでも、入れっぱなしではなく、時々はお見舞いに来て欲しい)
  • お見舞いの際には、好きな花やチョコレートを持ってきて欲しい
  • 好きな音楽をかけて欲しい
  • 人工呼吸器や胃ろうなどの延命治療は希望しない

などの希望も伝えているのだそうです。

(施設に入るための費用はもちろん用意しているとのこと)

さて、いかがでしたでしょうか。

小山明子さんの、

について、まとめてみました。

今でも大島さんの部屋は当時のままにしてあるそうで、

毎朝ご飯をあげたり、お花をあげたり、いろんなことを報告したりしています。映画監督だったので、作品に関連し、何かにつけて、いろんなことを思い出させてくれます。その意味で彼は私の心の中に生きています

と、語っていた小山さんですが、

その一方で、90歳も間近の高齢にもかかわらず、人のために役立つ仕事がしたいとも語っていた小山さん。

壮絶な大島さんの介護を乗り越え、度重なる自身の大病も乗り越えた小山さんの活躍はまだまだ続きそうです。

「小山明子の生い立ちは?病弱ながらも活発だった!」

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