2014年には、お父さんのドキュメンタリーを製作し、お父さんが同性愛者だったことや、そんなお父さんへの思いを告白した、ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro)さんですが、今回は、そんなお父さんとお母さんの馴れ初めなど、デ・ニーロさんの知られざるルーツをご紹介します。

「ロバート・デ・ニーロの父親は同性愛者だった!」からの続き

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父親ロバート・デ・ニーロ・シニアは画家

デ・ニーロさんの父方のおじいさん・ヘンリー・マーティン・デ・ニーロさんと、アイルランド系アメリカ人のおばあさん・ヘレン・M・デ・ニーロさんは、もともと、イタリア南部ナポリに隣接するカンポバッソ県(アドリア海側)のフェラッツァーノの出身なのですが、

アメリカ合衆国・ニューヨーク州シラキュースに移住すると、そこで、ロバート・デ・ニーロ・シニアさんが誕生します。

すると、ロバート・デ・ニーロ・シニアさんは、少年時代から絵画の才能を発揮したそうで、グリニッチ・ヴィレッジでアートスクールを開いていた画家ハンス・ホフマンさんのもとで絵の勉強するため、地元シラキュースからグリニッチ・ヴィレッジに移り住むと、やがて、ホフマンさんの影響で、抽象画家になることを決意したそうです。


お父さんのロバート・デ・ニーロ・シニアさん。

母親ヴァージニア・アドミラルも画家

そんな中、ロバート・デ・ニーロ・シニアさんは、同じホフマンさんのアートスクールに通っていた、ヴァージニア・アドミラルさん(デ・ニーロさんのお母さん)と出会うと、アートスクールの中でも才能が傑出していた二人はたちまち惹かれ合ったそうで、

出会って1年も経たないうちに結婚すると、リトル・イタリー(イタリア系アメリカ人が多く暮らす界隈)から少し外れたところにあるブリーカー・ストリートのアパートの2階で暮らし始めたそうです。

(ヴァージニアさんはイタリア系ではなく、イングランド、ドイツ、フランス、オランダの血を引いていたそうです)

両親は自宅をサロン(芸術仲間との交流場の場)として開放していた

その後、ロバート・デ・ニーロ・シニアさんとヴァージニアさんの作品は、グッゲンハイム美術館にも展示されるようになったそうで、

やがて、才能ある二人のもとには、芸術家仲間が頻繁に訪れるようになると、二人は、仲間たちの交流の場として、(頼まれる形で)アパートをサロンとして開放し、集まってきた仲間たちと、夜中まで芸術について、熱く語りあったそうです。

また、好奇心旺盛だった、ヴァージニアさんは、ヘンリー・ミラーさん、ロレンス・ダレルさん(2人とも後の小説家)やアナイス・ニンさん(1970年代のフェミニズム運動で活躍)らとともに、評論雑誌の立ち上げに参加し、その編集に携わるなど、絵画以外の活動も精力的に行ったそうです。

(ロバート・デ・ニーロ・シニアさんは、芸術活動にすべてを捧げたそうです)

2歳の時に両親が離婚

そんな両親のもと、長男(一人っ子)として誕生したデ・ニーロさんは、貧しいながらも、親子3人、幸せな日々を送っていたそうですが・・・

(父・ロバート・デ・ニーロ・シニアさんと母・ヴァージニア・アドミラルさんは、芸術的な才能が高く評価されたものの、経済的には困窮していたそうです)

デ・ニーロさんが2歳の時、両親が突然、離婚。

実は、当時、オーストリアの精神科医・ジークムント・フロイトが打ち立てた精神分析が巷では話題となっており、両親が開放するサロンにも、精神科医を名乗るあやしい人物が出入りするようになっていたそうですが、

両親は、その自称精神分析医に自分をさらけ出すうち、精神分析医に言われるまま、離婚してしまったのでした。

(あれほど仲が良かった2人の離婚に、仲間たちは、ただただ、驚くばかりだったそうです)

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精神分析とは?

ちなみに、精神分析とは、人間の心は意識的な心と無意識的な心の両方から成り立っているという考えのもと、無意識的な心にとらわれ過ぎ、生活に支障が出るほど辛く苦しいものになった場合でも、

精神分析医との交流を通して、自分自身(無意識的な部分を含めて)を心の底から理解するようになると、辛く苦しいとらわれから自由になり、心の平和を回復することができるというものだそうです。

(デ・ニーロさんの両親と自称精神分析医の詳しいやり取りは不明ですが、お父さんは同性愛者だったことから、精神分析を続けているうち、偽りのない本当の自分で生きたいと思ったのかもしれません)

「ロバート・デ・ニーロの幼少期は孤独だった!」に続く

若かりし日の父・ロバート・デ・ニーロ・シニアさんと母・ヴァージニア・アドミラルさん。

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