共に画家だった、イタリア系アメリカ人のお父さんとアイルランド系のお母さんのもとに誕生した、ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro)さんですが、2歳の時に両親が離婚し、お母さんと暮らすようになると、しばらくは、お父さんとの交流が続くも、やがて、お父さんとの交流が無くなってしまうと、内気で孤独な少年時代を送ったといいます。

「ロバート・デ・ニーロは2歳の時に両親が離婚していた!」からの続き

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離婚後もしばらくは両親の仲は良好だった

デ・ニーロさんが2歳の時、突然、両親が離婚すると、幼いデ・ニーロさんは、お母さんに連れられて小さなアパートに引っ越し、お母さんは、不安定な芸術活動を辞め、出版社や作家の秘書や校正係として働き始めたそうですが、

お父さんとは憎み合って別れた訳ではなかったため、離婚後も両親の仲は良く、お父さんは、よく、デ・ニーロさんに会いに来てくれたそうで、デ・ニーロさんが少し大きくなると、近所の映画館に連れて行ってくれるなど、とてもかわいがってくれたそうです。

(離婚後、お父さんは、自宅のそばに仕事場を設け、それまで以上に、芸術活動に没頭していたそうですが、相変わらず、経済的には困窮し、ほとんどその日暮らしだったそうです)

幼少期は孤独だった

しかし、数年後、若手の脚本家が自宅に出入りするようになると、良好だった両親の関係も終わって、お父さんが会いに来てくれることもなくなり(以来、お父さんとの交流は完全に無くなってしまったそうです)、

さらには、その脚本家が家に来る度、デ・ニーロさんはいつもお母さんに本を持たされて、「遊びは自分で見つけなさい」と言われ、(体が弱かったにもかかわらず)家から追い出されたそうで、デ・ニーロさんは、仕方なく、いつも近所のヴィレッジ界隈を一人でぶらついたそうです。

(そのため、デ・ニーロさんは、この脚本家が嫌いだったそうですが、当時のデ・ニーロさんには友達もおらず、とても孤独だったそうで、この辛い記憶の残る幼い頃のことは、いまだに、インタビューでも語りたがらないそうです。)

小学校に入学し初めて友達ができる

それでも、小学校に通うようになると、生まれて初めて友達ができ、その友達とヴィレッジの路上で遊んだり、映画を観に行くようになったそうで、

(やがて、遊びの行動範囲は、グリニッジ・ヴィレッジを越え、リトル・イタリーやロウアー・イースト・サイドにまで拡大したそうです)

デ・ニーロさんは孤独を癒やしてくれる友達をとても大切にしたのだそうです。

(この頃に、後にデ・ニーロさんが主演する「タクシードライバー」「ミーン・ストリート」「キング・オブ・コメディ」のマーティン・スコセッシ監督と、リトル・イタリーのストリートで知り合ったそうです。)

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「オズの魔法使い」の臆病者のライオン役で拍手され、演技に興味を持つ

そんな中、デ・ニーロさんは、学校の学芸会で「オズの魔法使い」の臆病者のライオン役を演じたそうですが、

(シャイで無口なデ・ニーロさんにピッタリの役だったそうです)

みんなが拍手をしてくれたことで、体の底から高揚するような不思議な感覚を味わい、自分でありながら、自分とは異なる役を演じることに興味を持つようになったそうで、

そんな息子の変化を敏感に感じた取ったお母さんに勧められ、10歳の頃、ドラマのワークショップに通うようになったのでした。

(ちなみに、このワークショップ、お母さんがタイピストとして働いていた、ドイツ人のマリー・レイ・ピスカーターさんが、夫とともに設立したものなのですが、現代的な手法を取り入れたこのワークショップには、後に、映画「ゴッド・ファーザー」で共演することになる、マーロン・ブランドさんや、ロッド・スタイガーさんも通っていたそうです。)

「ロバート・デ・ニーロは少年時代「ボビー・ミルク」と呼ばれていた!」に続く

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