高校3年生の時、文化祭で行われたシェークスピアの英語劇「ベニスの商人」で大役のシャイロック役を演じたことをきっかけに、役者になろうと早稲田大学を目指すも、受験に失敗し、当初は浪人しようとするも、最終的には早稲田大学を断念した、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、その後、偶然、帝国劇場の研究生募集の新聞広告を見つけたといいます。

「財津一郎は役者を目指し早稲田大学を受験するも不合格となっていた!」からの続き

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帝国劇場に研究生として入団

役者になろうと、演劇の名門・早稲田大学を受験するも、不合格となり、当初は、浪人して早稲田大学を再受験しようとするも、学力の向上が見込めず、金銭的な問題もあり、最終的には受験を断念したという財津さんですが、

どうしても、ミュージカル俳優への夢があきらめきれず、どうすればいいかと考えていると、そんなある日のこと、「帝国劇場の研究生募集」と書いてある新聞広告が目に留まったそうで、

(東京の帝国劇場は、1911年に日本初の西洋式演劇劇場として設立されたそうです)

ああ、こんな道もあるのか。実践で学ぶのもいいかもしれない

と、早速、簡単な面接と歌のテストを受けると、なんとか合格したのだそうです。

(大学受験の挫折が生んだ思いがけない幸運だったそうです)

オペレッタ(軽歌劇)「赤い絨毯」でデビュー

そして、1953年には、「赤い絨毯」という、国会を舞台にしたオペレッタ(軽歌劇)で、バックコーラスの一員(国会議員役)として初舞台を踏んだそうで、

(主演は森繁久彌さんだったそうで、後に、財津さんは大きな影響を受けたそうです)

舞台は、

赤い絨毯 まっかでも 心の黒い人もいる 正しい日本を築くのは真心だ

真心燃やせ 火のように 赤い絨毯 火のように 赤い絨毯 赤い絨毯 赤い絨毯・・・

という、財津さんたちの大合唱で幕開けしたそうですが、

財津さんは、(国会は帝国劇場の近くにあったため)国会に歌声を響かせるように歌ったのだそうです。

(今もこの歌が頭に焼き付いて離れないそうです)

帝国劇場が解散

こうして、早稲田大学の受験に失敗したことから、たまたま帝国劇場に入団することになった財津さんですが、帝国劇場での仕事はとても刺激的だったそうで、

財津さんは、

オペレッタは素晴らしい。私はこの帝劇で青春を燃焼しよう

と、決意したそうですが・・・

帝国劇場は、それから2年も経たないうちに、経営者の意向で、当時、アメリカで流行していた湾曲の特大スクリーンを持つ映画館「シネラマ」に変わることになったそうで、

財津さんは、これから自分はどうなるのだろうと、劇場の前でコッペパンをかじりながら途方に暮れたのだそうです。

(財津さんたち劇団員には、何の報告もなかったそうで、ある日、突然、大工さんがやって来て、舞台を壊し始めたのだそうです)

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ピンチをチャンスに変えようと芸を極める決意をする

そんな中、多くの研究生が、東宝演劇部や撮影所で働くことになったそうですが、財津さんは、「若い時の苦労は買ってでもしないといけない」と思い、あえて、その誘いを断り、

同時に、阿蘇農業高等学校で先生に言われた、

ピンチの時こそ志を。根アカに生きろ

という言葉を思い出し、

芸を極めるためなら何でもしようと、職探しを始めたのだそうです。

「財津一郎が若い頃はジャズシンガーとして米軍キャンプを回っていた!」に続く


聞いてチョウダイ 根アカ人生

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