出会った時から両想いで、交際を反対する会社に、アメリカ逃避行までして抵抗し、最終的には会社を折れさせた、石原まき子さんと石原裕次郎さん夫妻。その後は長らく苦難を共にされていたのですが・・・裕次郎さんに次々と病が襲いかかります。

「石原まき子(北原三枝)と石原裕次郎の馴れ初めは?両想いだった!」からの続き

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石原裕次郎が「舌ガン」と「解離性大動脈瘤」

1978年12月、石原裕次郎さん(当時44歳)に「悪性腫瘍(舌ガン)」が発覚します。

そこで、裕次郎さんは、手術を受け、3ヶ月に及ぶ闘病生活の末、見事復活を遂げられるのですが・・・

それから約3年後の1981年4月、刑事ドラマ「西部警察」の撮影中、背中と胸の激痛を訴え、緊急入院すると、検査の結果、「解離性大動脈瘤」であることが判明。

医師からは、手術をしても成功する確率はわずか3%と告げられてしまいます。

それでも、裕次郎さんは、手術を決断すると、6時間に及ぶ手術は無事成功。

まき子さんは、裕次郎さんが入院して以来、1日も自宅に戻ることなく、寄り添って看病を続けたそうで、そんなまき子さんの気持ちが通じたのか、裕次郎さんは、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院。

裕次郎さんは、退院されると、すぐに「石原プロモーション」に向かい、ずっと待ち続けてくれた社員達と笑顔で再会を果たすと、初めて涙を見せたそうです。


1981年6月、入院されていた慶應義塾大学病院の屋上から手をふる石原裕次郎さん(中央)。右はまき子さん。左は渡哲也さん。

厳しい食事制限と看病で1日3時間睡眠

ところで、退院後、裕次郎さんは、食事制限することとなるのですが、その食事を作るのは、もちろん、妻であるまき子さん。

そのまき子さんは、後に、

1日の塩分の摂取量が6グラムと言われ、一番気を遣いました。6グラムってラーメン1杯をおつゆまで飲んだのと同じ量。料理が一番苦労しましたね。

でも、食事療法で回復すると信じていたから、裕さんが最初に口を付ける場所に塩をかけてしょっぱく感じるように工夫してね。裕さんには、食べれば治る、食べなきゃ血管が強くならない、って言いました。

裕さんも最初は義理で食べてくれていたけど、だんだん箸で弾くようになってしまってね。1、2時間かけて作った料理なのに、“どうして食べてくれないの”って泣いたこともありますよ。

毎回、自然食の食材を買って作ってねえ。夜の食事を終えたら、裕さんを寝かして次の日の献立を考えて…。それが6年続いたの。1日に3時間寝られればいいほうだったのよ。

と、壮絶な日々を明かされていました。

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実は神田正輝と舘ひろしが食べていた

一方、裕次郎さんもまた、「大好きなアルコールやタバコをやめ、塩分の薄い食事を3度きっちり食べている」と、テレビでは語っておられたのですが・・・

後に、神田正輝さんは、

隠れてタバコを吸ったりしているんです。「石原さん出番です」と言われたら僕によこすんです。でも、(受け取ると)火は反対じゃないですか。

舘ひろしさんも、

撮影に行くとまき子さんが作ったサラダが届いているんです。塩分制限があるので、石原さんが食べるんですけど、塩を使っていないのでおいしくないと。

少し食べて、渡さんに渡して、でもおいしくないから僕のところに来て…。心をこめて作ったサラダを私が頂きました。すみません…

と、明かされており、

まき子さんは、その話を聞くと、

固形物を食べた日は表情が良かったの。最後のころは、食事を受け付けないのは分かっていたけれど…

そうそう、今になって何人かの方から「実は裕次郎さんが食べたと見せるために僕たちが食べてました」って申し訳なさそうに言われてね。裕さんには良いお仲間がいたのよ。

と、裕次郎さんへの愛情をにじませたのでした。

「石原まき子(北原三枝)が明かした石原裕次郎のもう一つの遺言とは?」に続く

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