映画「社長シリーズ」や自身の冠番組「光子の窓」で司会進行役を務められるなど、映画、テレビにと活躍されていた、草笛光子(くさぶえ みつこ)さん。そんな草笛さんは、1960年代後半には、ミュージカルに魅了されるのですが・・・

「草笛光子の若い頃は10年に1人の逸材!森繁久彌の浮気相手でブレイク!」からの続き

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ミュージカル「ラ・マンチャの男」でヒロイン

草笛さんは、映画女優をされながらも、1960年代にはまだ日本にはなかったミュージカルに注目されていたそうで、

日本にまだミュージカルのミの字もない時代でしたねえ。 芝居する人、歌う人、踊る人と分かれている。ミュージカルというものがあると知ったのは、NHKのラジオで森繁さんと歌入りドラマをやっていた頃です。

NHKの資料室に入り浸って外国のミュージカルのレコードを聴き、譜面を自分で書き写したり。ニューヨークまで観に行ったり。

と、ミュージカルに傾倒していかれるのですが、

そんな1960年代後半のこと、出演が決まっていた舞台の勉強のために、本場の作品を観ようとロンドンに行こうとした矢先、突然、その役を降ろされ、別の人が演じることになってしまいます。

悲しくて悔しくて、自分を降ろした、劇作家でプロデューサーの菊田一夫さんのところへ行き、女優をやめると、怒って泣いて訴えた草笛さんですが、

菊田さんには、

ニューヨークで「ラ・マンチャの男」をやっているから観てきなさい。

と、勧められ、

草笛さんは勧められるまま、ニューヨークで、ミュージカル「ラ・マンチャの男」を観劇すると、衝撃から一気に女優魂が燃え上がったそうで、

このミュージカルに出演させてくれるのなら、女優を続けたいと思われ、帰国後、菊田さんのところへ直談判に行かれると、菊田さんは、願いを聞き入れてくれ、上演権を取得。

1969年、草笛さんは、「ラ・マンチャの男」で、ヒロイン・アルドンサ役を演じられたのでした。


「ラ・マンチャの男」より。

コンチクショー精神?

ところが、もっと完成度をあげようと思っていた矢先の1973年、草笛さんは、またしても菊田さんによって、アルドンサ役を降ろされてしまいます。(評判が良かったにもかかわらず)

この2度目の降板には、相当なショックを受け、菊田さんを恨み、自殺まで考えたという草笛さんですが、

でもそれが私の起爆剤みたいなものでね。辛い時はとにかくそこを抜け出さなきゃならないでしょ。コンチクショーって思うと乗り越えられるような気がするの。

これまでもコンチクショー精神でずいぶんいろいろ助けられましたから。

と、この出来事が起爆剤となり、以降、何があっても、「コンチクショー精神」で乗り越えることが出来るようになったのだそうです。

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母親との絆

そんな草笛さんは、「松竹歌劇団(SKD)」退団以降、ずっとフリーで活動されていたのですが、そのマネージャーを務めていたのは、もともと草笛さんの芸能界入りに反対されていたお母さんだったそうです。

しかし、長きに渡って公私共に支えてくれたお母さんも、2009年に他界。(以降、草笛さんは、「オスカープロモーション」と業務提携されています)

草笛さんは、お母さんが亡くなった日に、足首にミサンガをつけると、

もう色が変わってしまったけど、赤い絹糸だったのよ。母が亡くなった日に結んだの。まだ一度も切れてない。だから母とはまだ繋がっているの。

と、それ以来、ずっとつけておられるそうですが、

ミサンガが切れた時のために(ミサンガは切れた時に願い事が叶うといわれていますが)、いつもバッグの中に赤い絹糸を用意し、切れたらすぐに結び直すつもりであることから、お母さんとは永遠につながっているとおっしゃっていました。

ちなみに、草笛さんは、1981年(48歳)には、2000万円の借金をしてまで、一人芝居「光の彼方に」を敢行し、

2002年(68歳)には、舞台「Witウイット」で、ガン患者を演じるために、頭を丸坊主にして、後ろ姿の全裸シーンを演じられるなど、すさまじい女優魂を見せられているのですが、

このすさまじい女優魂を支えていたのは、お母さんだったのかもしれませんね。

最後に、草笛さんは、

もういい加減にしてよって母は言ってるかもね。でも私がこうやって頑張っているのも、母のもとに行った時に、もっといい女優に、もっといい人間になって胸を張って会いたいから。まだまだ行けないな。

と、おっしゃっていました。

「草笛光子のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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