12歳の時に空襲を体験し、地獄絵図を目の当たりされた、仲代達矢(なかだい たつや)さんは、終戦後は、働きながら定時制高校を卒業。高校卒業後は、学歴がなくても生きていける職業を模索し始めます。
「仲代達矢は子どもの頃に空襲で急死に一生を得ていた!」からの続き
学歴が関係ない職業を模索
終戦直後、仲代さんは、まだ中学生だったにもかかわらず、ポン菓子屋、製麺工場、世田谷・千歳烏山の駅前で梅干し売りなどをして働かれたそうで、その後、世田谷区立烏山中学校の用務員の仕事にありつき、ようやく、定時制高校に通うことができます。
そして、高校卒業間近になると、子どもの頃から本が好きで読書家だったことから、出版社で働きたいと、早稲田大学の夜間部を受験されるのですが、不合格に。
ならば、小説家になれないだろうかと、原稿用紙200枚くらいの原稿を出版社に送ったそうですが、何の音沙汰もなくこちらも駄目。
さらに、ボクシングにも挑戦しようと、ボクシングジムに通ったこともあったそうですが、殴られるのが嫌だったことや、ボクサーは現役寿命が短く、引退後の将来が不安だったため、やめたそうです。
友人に勧められて俳優の道へ
こうして仲代さんは、学歴が関係ない仕事はないかと探し回っていたそうですが、
そんな時、夜間高校の友人に、
お前は顔がいいからから役者になれよ
と、俳優になることを勧められたそうです。
ただ、その時には聞き流していたそうですが、
それでも、やがて、
食っていかないといけない。どうすれば役者になれるだろう
と、考え始めたのだそうです。
19歳くらいの時の仲代さん。
「俳優座」養成所に入所
実は、仲代さんは、高校生の頃、食事を抜いてでも、映画を見ることが好きだったそうで、なけなしのお金をはたいて、パンフレットも買っていたそうですが、
そこに載っている外国の俳優のプロフィールを見ていると、みんな、大学の演劇科や演劇学校を出ていることに気づいたそうで、3年間で演技の基礎を教えてくれる「俳優座」の養成所の存在を知り、受験。
すると、ちょうどその年、「俳優座」は、「大柄な新人」を求めていたそうで、背が高かったお父さんと、声が大きかったお母さんの、両方の資質を受け継いでいた仲代さんは、1952年、約20倍の競争率を突破し見事合格。第4期生として入所されたのでした。
バーで働きながら「俳優座」で役者修行
こうして、「俳優座」に入った仲代さんは、電車賃を節約するため徒歩で通い、毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、夜は生活のためにバーで働きながら、役者修行に励む日々を送られたそうで、
仲代さんは、後に、この頃の生活について、
みんなで演劇や映画を語り合うのは楽しかったですね。でも、養成所では最初の1、2年は、音楽鑑賞やピアノに合わせての歩行、バレエなどで、演技なんて教えてくれない。
一番仲がよかった佐藤(慶)さんは、「バレエをやるならバレエ団、音楽なら芸術大学に行け。俺は役者になるんだ!」といって堂々とさぼっていた。私も「なるほど」なんて影響されまして。彼には、良くも悪くも薫陶を受けました。
この頃は、夜遅くまでパチンコ店でアルバイトをして、アパートに戻ると午前3時。9時には養成所が始まるので、ほとんど寝られない。お金もないので、渋谷駅から東京・六本木にある俳優座まで毎日走っていました。おかげで舞台俳優に必要な体力はつきましたね。
3年生になると、映画のオーディションを受け始めます。でも、当時は「さわやかな青年」の需要が多く、薄汚れて目をギラギラさせた私と佐藤(慶)さんは落ちてばかりでした。
と、明かされています。
(同期生には、佐藤慶さんのほか、佐藤允さん、中谷一郎さん、宇津井健さんらがいらっしゃったそうですが、佐藤慶さんは、仲代さんだけは、特別、印象に残っていると明かされています。)
「仲代達矢の若い頃は黒澤明監督に何度も歩き方をダメ出しされていた!」に続く
「俳優座」養成所の仲間たちと。前列右から2番目が仲代さん、右端が佐藤慶さん。(1952年)