石原裕次郎さんと共演した映画が次々とヒットを記録し、裕次郎さんとともに日活の「ドル箱コンビ」と称されるようになった、石原まき子(北原三枝)さんですが、実は、その陰で、裕次郎さんと密かに愛を育まれていました。今回は、そんなお二人の馴れ初めや結婚までの経緯についてご紹介します。

「石原まき子(北原三枝)の狂った果実ほか出演映画を画像で!」からの続き

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石原裕次郎とは出会った時から両想いだった

すでに「日活」でスター女優として活躍していた石原(北原)さんですが、1956年、まだ無名の新人俳優だった石原裕次郎さんと「日活」のスタジオで出会うと、裕次郎さんが放つオーラに圧倒され、たちまち恋に落ちたそうです。

(裕次郎さんは、1956年、芥川受賞を受賞したお兄さん・石原慎太郎さんの作品を原作とする映画「太陽の季節」に出演(端役)されたばかりでした。)

そして、同年、石原(北原)さんは、映画「狂った果実」で、その裕次郎さんと共演を果たすのですが、


「狂った果実」より。石原裕次郎さんと北原三枝(石原まき子)さん。

実は、裕次郎さんもまた、高校時代に、映画「君の名は 第二部」で石原(北原)さんを見て以来、石原(北原)さんの大ファンだったそうで、石原(北原)さんに会わせてほしいと、プロデューサーに頼んでいたというのです。


「君の名は 第二部」出演時の石原(北原)さん。

(裕次郎さんの兄・石原慎太郎さんが1956年に発表した小説「狂った果実」を映画化するにあたって、裕次郎さんが主役に抜擢された当初、裕次郎さんは乗り気ではなかったそうですが、相手役が石原(北原)さんと聞き、一転、出演を快諾したのだとか。)

石原裕次郎とアメリカへ逃避行

こうして、石原(北原)さんは、1956年、映画「狂った果実」で、まだ、無名の新人俳優だった石原裕次郎さんと共演すると、映画は大ヒットを記録。

以降、石原(北原)さんは、裕次郎さんと共に、日活の「ドル箱コンビ」と呼ばれるのですが、実は、お二人は、結婚を視野に入れて、密かに交際を開始していたそうです。

ただ、当時、映画界では、トップスター同士の恋愛はご法度(はっと)だったため、1960年、なんと、お二人は、駆け落ち同然で、アメリカへ逃避行。

そのことについて、石原(北原)さんは、

周りのスタッフさんたちは認めてくれましたが、会社が認めなかったんです。私もその時は、会社が反対していることはいけないことというのは常識で分かっていましたから。

でも、どちらを選ぶかとなったら裕次郎さんを選ぶ。会社に抵抗して実力行使です。そうしたら社長から「結婚を許す、帰ってらっしゃい」と。帰ったらまた飛行場が大騒ぎですよ。

と、後に明かされているのですが、

帰国後は、約200名もの報道陣が待ち構えており、お二人はその報道陣を前に謝罪会見を行ったのでした。

(これが、日本で初めての謝罪会見だったと言われています。)

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石原裕次郎との結婚時の約束とは?

それから2ヶ月後の1960年12月、石原(北原)さんは、裕次郎さんとめでたく結婚されると、結婚後は家庭に入って裕次郎さんをサポートすると決心し、女優業を引退。


結婚披露宴での裕次郎さんとまき子さん。

石原(北原)さんは、

主婦ですからね。結婚して、素人に戻りました。お掃除も洗濯も大好き。女優をしていたときも、自分のものは洗濯をしていましたから。

と、主婦業は苦にならなかったそうですが、

結婚する時、裕次郎さんに、ある約束をさせられたそうです。

それは、

ネオン街が嫌いな人じゃありませんから。キレイどころ大好きな人ですから。結婚する時に約束があるんですよ。

「お酒は飲みます」「お友達は家へたくさん来ます」「ネオン街から足は洗いません」それに慣れないとダメなんです。

と、いうもので、まき子さんは、この約束を守り続けるも、慣れるまでに8年もかかったそうです。

ただ、それ以外は、裕次郎さんは、スター然とせず、普通の旦那さんでいてくれたそうです♪

「石原まき子(北原三枝)が語る石原裕次郎の闘病秘話!」に続く

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