1974年12月に発売した「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の3枚目のシングル「スモーキン・ブギ」がヒットすると、1975年4月に発売した4枚目のシングル「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」もミリオンセラーとなる大ヒットとなり、たちまちスターダムに駆け上った、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さんは、その後も快進撃を続けます。

「宇崎竜童は若い頃「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒット!」からの続き

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山口百恵に提供した「横須賀ストーリー」が大ヒット

1975年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の大ヒットにより、作曲家としても一躍脚光を浴びた宇崎さんは、

翌年の1976年には、妻・阿木燿子さんとコンビを組み、当時16歳だったアイドル歌手・山口百恵さんに「横須賀ストーリー」を提供しているのですが、これが81万枚を売り上げる大ヒット。


横須賀ストーリー

歌詞の中の「これっきり これっきり もう これっきりですか」のフレーズは大ブームを巻き起こし、宇崎さん&阿木さん夫妻も、一躍、その名を世に知らしめます。

(山口さんも、この曲の大ヒットをきっかけに、早熟な少女から、自分の意思を持つ、自立した大人の女性へのイメージチェンジに成功しました)

「横須賀ストーリー」は山口百恵サイドから作曲の依頼を受けて作られたものだった

しかし、当時の宇崎さんは、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」で不良キャラ。なぜ、そんな宇崎さんがアイドル歌手の山口さんに曲を提供したのでしょう。

実際、宇崎さんも、

その頃僕は27歳くらいでしたから、16~17歳なんてね・・・すごい遠い存在だったから、子供が歌ってるんだなぁとしか思ってなかったですね

と、語っているのですが・・・

実は、ある日のこと、宇崎さんのもとに、「山口さんに曲を書いて欲しい」という一本の依頼の電話がかかってきたそうで、別の世界で生きていて、本来なら結びつくはずのない間柄だった山口さんの作曲というオファーに、

なんで俺なんだ?

と、戸惑いながらも、このオファーを受けることにしたのだそうです。

(この時、山口さんはデビュー3年目で、共にオーディション番組「スター誕生!」から歌謡界デビューした、森昌子さん、桜田淳子さんと3人で、「花の中三トリオ」(1973年)と呼ばれ、アイドルとして人気絶頂の時期を迎えていました)

「横須賀ストーリー」では”アイドル歌手・山口百恵”のイメージを壊すことを目指していた

そこで、宇崎さんは、この時初めて真剣に、山口さんのこれまでの曲を聴き直したそうですが、それまで山口さんが歌っていた曲の中には山口さんの実像に近い歌がなかったそうで、

そういう曲がアルバムの中に一曲くらい入っていてもいいのでは、と思い立ち、妻で作詞家の阿木燿子さんと相談しながら作曲作りに取り掛かったそうで、

偶然にも、山口さんの出身地と阿木さんの両親が暮らしていた場所が神奈川県横須賀市という共通点があったことから、まずは、そこからアイドル歌手としての山口さんのイメージを壊すことを目指したのだそうです。

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「横須賀ストーリー」は阿木燿子の歌詞を見た瞬間メロディが浮かんでいた

こうして、阿木さんが、

これっきり これっきり もう これっきりですか

これっきり これっきり もう これっきりですか

急な坂道駆け上ったら
今も海が見えるでしょうか
ここは横須賀

と、先に歌詞を作ると、

その歌詞に宇崎さんがメロディーを乗せたそうですが、それには15分もかからなかったそうで、

宇崎さんは、

歌詞を見た瞬間にもうメロディが浮かんでるんですよね。だから歌詞の上に音譜が書いてあったようなものなんですよ

と、語っています。

(ちなみに、山口さんは、神奈川県横須賀市で小学2年から中学3年まで7年間を過ごしたそうですが、小学生の時には、貧しい家計を支えるため新聞配達をしていて、この街を知り尽くしていたそうで、阿木さんが書いた「坂を上れば海が見える」という歌詞は、山口さんが記憶している風景そのままだったそうです)

「宇崎竜童が山口百恵に作曲した「横須賀ストーリー」は当初アルバム用だった!」に続く

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