小学3年生の時に音楽に興味を持つと、中学2年生の時にはブラスバンド部に入部してトランペットを始め、大学2年生の時には、「ビートルズ」に憧れ、作曲家を志すようになったという、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さんは、大学卒業後は、義兄が経営する音楽プロダクションで裏方の仕事をしつつ、作曲活動に打ち込んだといいます。

「宇崎竜童は大学在学中に350曲もの作曲をしていた!」からの続き

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大学卒業後はオフィス用品の販売会社「内田洋行」に就職するもすぐに退職していた

大学時代は音楽に明け暮れる毎日を過ごしていたという宇崎さんですが、大学卒業後は、どうしたら作曲家になれるか分からなかったことや、両親の手前、すぐに作曲家になる訳にはいかず、オフィス用品の販売会社「内田洋行」に就職したそうです。

しかし、性に合わず、1ヶ月で退職すると、義兄が立ち上げた音楽プロダクション「大橋プロダクション」に就職し、裏方として、新人アーティストのスカウト、マネージャーをしながら、トレーニングなどの仕事をしたそうで、

宇崎さんは、

(当時、グループサウンズ全盛だったことから)「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」などのトップスターが所属していたんですよ。ギターの三原綱木さんなんて同い年なのに、16歳ぐらいからステージに上がっていてルックスも可愛い。

2つ、3つ上には尾藤イサオさんや鹿内タカシさんがいて、そんな人ばかりだったから同じ土俵に乗ろうなんて思いもしませんでした。ただ、この人たちに曲を書きたいという気持ちはあってね。

と、語っています。

(宇崎さんは、グループサウンズバンド「ミルク」で活動していた松崎しげるさんをスカウトするなどマネジメントして、プロデビューさせたこともあったそうです)

義兄が経営する「大橋プロダクション」で本格的に作曲家を志していた

また、そんなかたわら、プロダクションのスタジオにこもり、フォーク、ポップス、演歌と様々なジャンルの曲を新人のために作曲していたそうで、

(新人アーティストに課題として既成曲を与えると、歌い方が元の歌手のコピーになってしまうため、オリジナル曲を作ってあげようと考えていたそうです)

この頃から、あらためて、音楽の裏方の仕事や作曲家になることを本格的に目指すようになり、仕事の合間にデモテープを吹き込んではレコード会社に持ち込み、曲の売り込みなどをしていたそうです。

(ちなみに、給料は安く、一般的な大卒の給料の半額以下で、税金を引かれた手取りは月1万8000円ほどだったそうですが、当時はまだ、実家で暮らしていたうえ、音楽に囲まれた環境で仕事ができ、音楽の勉強ができたことからまったく苦にならなかったそうです)

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「大橋プロダクション」が倒産

そんな中、1969年、23歳の時には、交際していた阿木燿子さん(作詞担当)とコンビを組んで手掛けた、「ジュリーとバロン」のシングル「ブルー・ロンサム・ドリーム」でプロの作曲家としてデビューするのですが、その後、しばらくすると、大橋プロダクションが倒産。

その後、義兄に、弾き語りの仕事を紹介され、横浜市の本牧(ほんもく)にあるクラブで弾き語りをするようになったそうで、そのうち、オーナーから、「君、店長やらないか」と誘われ、宇崎さんはこの申し出を快諾したそうですが・・・

(25歳の時で、阿木さんとやっと結婚できると思ったそうです)

半年で、そのお店を倒産させてしまったのだそうです。

「宇崎竜童が若い頃は「ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンド」!」に続く

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