1996年には「脳出血」、2001年には「十二指腸潰瘍せん孔」と、2度も倒れ、闘病生活を余儀なくされた、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、妻・小山明子さんの献身的な介護により、金婚式に出席できるまでに回復していたといいます。

「大島渚は「脳出血」で倒れ回復するも「十二指腸潰瘍せん孔」で再び倒れていた!」からの続き

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妻・小山明子はある人の言葉でウツ病から立ち直っていた

大島さんが倒れると、女優としての自分が捨てられずに悲嘆にくれ、さらには、介護の重圧からウツ病を発症していたという、大島さんの妻・小山明子さんですが、ある人の一言が立ち直るきっかけになったといいます。

ある日のこと、大島さんに付き添い、リハビリ室で待機していると、

隣にいた年配の女性が、

奥さん。あの方、有名な映画監督の大島渚よ。大変ねえ~

と、話しかけてきたそうで、

小山さんは、「そうなんですか」と返事をしたそうですが、すぐ目の前にいるのがその大島さんの妻である自分だということに気づかれなかったことに、心臓が凍りそうなほどショックを受けたそうで、

家に帰って鏡を見ると、頭は真っ白、げっそり痩せて化粧もしていない老婆のような姿の自分が映っており、納得したのだそうです。

ただ、この出来事が、ウツ病から立ち直るきっかけとなったそうで、これまで、いかに自分が大島さんに依存していたかを思い知り、精神的に自立しなければと思うようになったのだそうです。

妻・小山明子は女優を捨てて大島渚を献身的に介護していた

以降、小山さんは、女優としての自分や過去の栄光を捨て、大島さんの介護に励んだそうで、

小山さんは、

(罵声を浴びせられても)私は、八つ当たりしてもらってストレス発散して、少しでも長生きしてもらいたかった。だって、十二指腸の手術後には、最悪のことまで覚悟していたのですから

もう過去の栄光にとらわれるのはやめよう。1人の闘病する人間とその妻として、一日一日を笑って生きよう。女優の代わりはいくらでもいるけど、大島渚の妻は私だけなんです

二度目に倒れた後は、ほとんど別人格になってしまったから。こちらが言うことはわかるんでしょうけど、最終的には言葉を話すのも不自由になってしまって。

だけど、私の中に、彼は尊敬できる人だっていうのがもう根底にあったので、彼に対する思いは、揺るぎなかったんですよ。

だから、たとえどうなろうとも「パパは偉い」っていうのが私の持論で・・・。息子たちが家に来るといつも、「あなたたちは、逆立ちしても、パパに敵わないわ」って言い続けていたの。

大島が生きているあいだ、ずーっと言い続けたんですよ(笑)。それが根底にあれば、たとえどんな状況になっても、ちゃんと向き合えるものなのよ。だから私は、最後まで面倒をみることができたの。

と、語っています。

妻・小山明子は大島渚が生きがいを失わないように工夫していた

ちなみに、小山さんは、本来、ユーモアのある大島さんのために、生活にユーモアを取り入れるようにしたそうで、大島さんが自暴自棄になって、「死にたい」と言うと、「あら死んじゃったら、明日のおいしいビールもご飯も食べられないわね」と明るく返すようにしたところ、次第に、大島さんの心も和らぎ、生活に笑いが生まれるようになったそうです。

また、医師からは厳しい食事制限マニュアルを渡されるも、グルメだった大島さんが生きがいを失わないように、全国からおいしいものを取り寄せ、量を調整するなどの工夫をしていたのだそうです。

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金婚式に出席できるまでに回復していた

そんな小山さんの献身的な介護の甲斐もあり、大島さんは、徐々に体力が回復し、2010年10月30日には、念願だった金婚式(結婚50周年)に出席することができ、

(和服姿で1時間半以上も座り続けることができたそうです)

2人の思い出の曲だったという「有楽町で逢いましょう」をデュエットできるまでに回復したのだそうです。

「大島渚の死因は?告別式には坂本龍一ほか700名が参列!」に続く


金婚式での大島さんと妻の小山明子さん。

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