1972年、ロックバンド「キャロル」でデビューすると、キャロル解散後の1975年には、「アイ・ラヴ・ユー、OK」でソロ・デビューし、

1978年に自伝「成りあがり」がベストセラーとなると、以降、熱狂的なファンを生み、半世紀に渡り、絶大な人気を博している、矢沢永吉(やざわ えいきち)さん。

そんな矢沢永吉さんは、当時は高価だった自転車の販売店を営むお父さんのもとに誕生するも、3歳の時にお母さんが蒸発すると、7歳の時にはお父さんが他界し、

その後は、親戚中をたらい回しにされた末、おばあちゃんに引き取られたそうですが、おばあちゃんは生活保護を受けており、貧しい生活を余儀なくされたといいます。

今回は、矢沢永吉さんの、生い立ち(幼少期から高校卒業後に横浜でロックシンガーとして活動を開始まで)をご紹介します。

矢沢永吉

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矢沢永吉のプロフィール

矢沢永吉さんは、1949年9月14日生まれ、
広島県広島市仁保(現・南区)の出身、

身長180センチ、

血液型はB型、

学歴は、
広島市立大芝小学校
⇒広島市立中広中学校
⇒広島電機大学付属高校(現広島国際学院高校)
⇒市立広島工業高校(定時制)に転校⇒卒業

趣味は、パソコン、バイク、クルマ 釣り、

ちなみに、矢沢永吉さんは、在日韓国人で、本名は「趙永吉(チョ ヨンギル)」、通り名は「巴山永吉」だったそうですが、その後、帰化したと言われています。

矢沢永吉は3歳の時に母親が蒸発し、7歳の時に父親が他界していた

矢沢永吉さんは、当時は高価だった自転車販売店を営むお父さんのもと誕生したそうですが、

矢沢永吉さんが3歳の時にお母さんが蒸発し、小学2年生の時には、お父さんが他界したといいます。

矢沢永吉が幼い頃は貧しかった

そんな矢沢永吉さんは、親戚中をたらい回しにされた後、おばあちゃんに引き取られたそうですが、

おばあちゃんは生活保護を受けていたことから、貧困生活を余儀なくされたそうです。

矢沢永吉が小学生の頃は貧乏を屈辱に感じていた

また、矢沢永吉さんは、小学4、5年生の時、遠足の持ち物や月謝を支払う時など、自分が他の子供達と違っているのは、貧乏だからだと気がついたそうですが、

生活保護を受けている子供は、給食を作る調理室の裏口に回って、牛乳とパンをもらっていたそうで、これを屈辱に感じていたそうです。

矢沢永吉
小学生時代の矢沢永吉さん。

矢沢永吉は中学2年生の時にロックンロールに夢中になっていた

矢沢永吉さんは、中学2年生の時、ラジオから流れるヒット曲を聴くうちに音楽が好きになったそうですが、ビートルズの「Please Mr. Postman」を聴いてエレキギターの音に衝撃を受けると、

たちまち、ロックンロールに夢中になり、やがて、ロックスターになることを夢見るようになったといいます。

矢沢永吉が高校1年生の時は板金屋になりたいと思っていた

ただ、高校1年生の時には、現実的に、

将来は板金屋の親方になりたい

と、考えていたそうで、

ロックスターになることは憧れに過ぎなかったそうです。

矢沢永吉
高校生の時の矢沢永吉さん。

矢沢永吉は高校時代に音楽活動を開始していた

こうして、板金屋の親方になるという堅実な将来設計を立てていたという矢沢永吉さんですが・・・

そんな中、ますます、ロックの虜になっていったそうで、高校2年生の時には、アルバイトで貯めたお金でギターを買い、習い始めると、高校3年生の時には、おばあちゃんにドラムセットを買ってもらい、作曲も始めたそうです。

(「I LOVE YOU, OK」の原曲を作曲したのもこの頃だったそうです)

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矢沢永吉は高校卒業後にロックシンガーを目指し横浜で音楽活動を開始

そして、高校卒業後の1968年4月には、ロックシンガーを目指し、広島から夜行列車に乗って東京を目指したのだそうです。

しかし、長時間座っていたことで、お尻が痛かったことに加え、ビートルズ発祥の地であるリヴァプールと同じ、港町である横浜駅で途中下車すると、伊勢佐木町の食堂で住み込みの仕事を始め、そこで働きながらバンド活動を始めたそうで、

その後、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)やCBSソニーに、自身が作曲した「I LOVE YOU, OK」や「ひき潮」を録音したテープを持ち込んだそうですが・・・

どちらも不採用だったといいます。

そんな中、矢沢永吉さんは、地元・広島のおばあちゃんの家に預けていたドラムセットを取りに戻ったそうですが、親戚から思いもよらぬ暴言を吐かれたうえ、ドラムセットを奪い取られてしまったといいます。

お読みいただきありがとうございました

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