1970年、「はっぴいえんど」として、ファーストアルバム「はっぴいえんど」でデビューすると、1971年11月20日にリリースした2枚目のアルバム「風街ろまん」では、”日本語ロック”の金字塔を打ち立て、
1972年11月25日には、「はっぴいえんど」と並行していたソロでも、自身の音楽的嗜好を色濃く反映させたアルバム「大瀧詠一」をリリースした、大瀧詠一(おおたき えいいち)さん。
今回は、そんな大瀧詠一さんの、若い頃(「はっぴいえんど」時代)の楽曲や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「大瀧詠一の生い立ちは?幼少期は?高卒後は大学受験に失敗し就職していた!」からの続き
大瀧詠一は22歳の時に「はっぴいえんど」として1stアルバム「はっぴいえんど」でデビュー
大瀧詠一さんは、1970年8月5日、細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんと共に、「はっぴいえんど」(「ヴァレンタイン・ブルー」より改名)として、ファーストアルバム「はっぴいえんど」でデビューを果たしているのですが、
実は、もともと大好きだったポップスを封印し、細野晴臣さんが目指すウエスト・コースト・ロック的な音楽に方向性を合わせることにしたのだそうです。
大瀧詠一は23歳の時に「はっぴいえんど」として2枚目のアルバム「風街ろまん」をリリース
そして、1971年11月20日(大瀧詠一さん23歳)には、「はっぴいえんど」として、2枚目のアルバム「風街ろまん」を発売すると、このアルバムはロックのサウンドに日本語の歌詞を融合させた〝日本語ロック〞を確立するのですが・・・
大瀧詠一さんが、この「風街ろまん」では、「はっぴいえんど」のために、自分の好きな音楽を封印して作曲していたのに対し、
細野晴臣さんはというと、そんなことはお構いなしに、(ジェームス・テイラーに影響を受けていた)自身の音楽的嗜好を反映した「風をあつめて」や「夏なんです」などの曲を作曲したことから、大瀧詠一さんは、細野晴臣さんに裏切られた思いがしたそうで、
大瀧詠一さんは、インタビューで、
『風街』で細野さんがジェイムス・テイラーっぽいことをやりだした。アチラは何も考えずに、自分の音楽やり続けてるんだよ。はっぴいえんどのためにぼくは自分の好きな音楽を封印した。ぼくは何のために目をそらし続けたのか
と、語っています。
大瀧詠一は23歳の時にソロ・シングル「恋の汽車ポッポ」「空飛ぶくじら」をリリース
そんな中、大瀧詠一さんは、「はっぴいえんど」の活動と並行して、1971年にソロ活動を開始すると、
- 1971年12月10日(23歳)には、「恋の汽車ポッポ」
- 1972年5月25日(23歳)には、「空飛ぶくじら」
と、シングルをリリースしています。
大瀧詠一は24歳の時にソロ・ファーストアルバム「大瀧詠一」をリリース
そして、1972年11月25日(大瀧詠一さん24歳)には、ソロとしてファーストアルバム「大瀧詠一」をリリースしているのですが、
この「大瀧詠一」には、シングル「恋の汽車ポッポ」「空飛ぶくじら」も収録されており、大瀧詠一さんが「はっぴいえんど」では封印していた自身の音楽的嗜好(ポップス)が色濃く反映されたアルバムとなっています。
大瀧詠一が24歳の時には「はっぴいえんど」が解散
その後、「はっぴいえんど」は、1972年12月31日(大瀧詠一さん24歳)に解散となるのですが、大瀧詠一さんがソロ作品をリリースしたのが原因の一つだと言われています。
ただ、大瀧詠一さんは、バンドのメンバーと袂(たもと)を分かつつもりはなかったそうで、ソロ作品が解散を招いたと言われることを気に病んでいたといいます。
ちなみに、「はっぴいえんど」のメンバーの一人だった松本隆さんは、
(大瀧詠一さんは、アルバム「はっぴいえんど」の収録曲「風をあつめて」や「夏なんです」のレコーディングには参加しなかったそうで)細野さんに「大瀧さんは?」って聞いたら、必要ないから呼ばなかったって。
悪気はまったくないんだよね、あの人。細野さんって自分のやりたいことしかない人だからさ。でも大瀧さんはそういうことに傷ついて、結局解散に向かっていくんだけど
と、語っているほか、
1972年10月に行われた「はっぴいえんど」のラストアルバム「HAPPY END」のレコーディング中には、大瀧詠一さんと細野晴臣さんは大ゲンカしていたといいます。
(アルバム「HAPPY END」は「はっぴいえんど」解散後の1973年2月25日に発売されました)
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