少年時代は、父親が蒸発したことで極貧となり、中卒で働き、家計を支えていたという、森進一(もり しんいち)さんですが、
ひょんなきっかけで、のど自慢番組「リズム歌合戦」に出場すると、あれよあれよと5週連続勝ち抜いて優勝し、スカウトされたといいます。
今回は、そんな森進一さんの、生い立ち(幼少期からスカウトされるまで)をご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?学歴は?
森進一さんは、1947年11月18日生まれ、
鹿児島県鹿児島市の出身(山梨県甲府市生まれ)、
身長165センチ、
体重53キロ、
血液型はO型、
学歴は、
鹿児島市立長田中学校卒業、
趣味は、
釣り、ゴルフ、
事務所は、
渡辺プロダクション、
だそうです。
本名は?芸名の由来は?
ちなみに、森進一さんの本名は、森内一寛(もりうち かずひろ)というそうですが、
芸名「森進一」の名付け親はハナ肇さんで、本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取り、渡辺プロの創業者で代表取締役会長の渡辺晋さんの、シンを進と読み替えて命名されたのだそうです。
少年時代は父親が蒸発し極貧
森進一さんのお父さんとお母さんは、結婚を家族に反対され、駆け落ちして山梨県の甲府に落ち着き、そこで森進一さんが誕生したそうで、
その後、看板の絵を描く仕事をしていたお父さんは、静岡県の沼津市に単身赴任となったそうですが、森進一さんが小学校1年生の時には、森進一さんも、お母さんとともに沼津市に引っ越し、そこで7歳年下の妹と9歳年下の弟が誕生したそうです。
しかし、やがて、お父さんは外に女性をつくり、家に帰ってこなくなってしまったそうで、
思いつめたお母さんは、お父さんの妹の近くにいれば、お父さんの消息がわかり、よりを戻せると考え、お父さんの妹がいる山口県に森進一さんたちを連れていったそうですが、
思惑通りにはいかず、生活保護を受けながら、市の母子寮で暮らしたといいます。
それでもしばらくすると、お母さんはパートで働き始めたそうですが、経済的に苦しいことに変わりはなく、森進一さんは、朝は牛乳と朝刊の配達、学校が終わると夕刊の配達をして家計を支えたのだそうです。
ちなみに、お母さんは、「胆石」と「パセドー病」も抱えており、「胆石」の痛みを止めるのにモルヒネを使っていたことから、意識が混濁(こんだく)することがあったそうで、そんなお母さんを外出先に迎えに行くのも、長男である森進一さんの役目だったといいます。
中卒で家計を支えていた
そんな森進一さん一家(お父さんを除く)は、1962年、森進一さんが中学3年生の時には、お母さんの故郷である鹿児島県に戻ると、そこで乾物屋を始めたそうですが・・・
商売はうまくいかなかったそうで、森進一さんは、中学卒業後、母親、幼い妹、弟を養うため、集団就職で大阪に移住し、その後、大阪の十三(じゅうそう)にある、すし屋に就職したそうです。
(森進一さんが故郷を出る時、お母さんはラーメン屋で働いていたそうですが、少しだけ店を抜け出し、線路際に立って、白い前掛けを外して、大きく振ってくれたそうで、その姿がその後の森進一さんの心の支えとなったそうです)
しかし、住み込みで働いて月給5千円と賃金が安かったため(現在の貨幣価値で換算すると約5万円ほど)、手元にはほとんど残らず、そのうえ、先輩から下駄で殴られるなど、ひどい目にあったそうで、1ヶ月で辞めて、鹿児島へ戻り、「キャバレーエンパイア」でバンドボーイとして働き始めたのだそうです。
ただ、しばらくすると、1円でも多く鹿児島の家族に仕送りしたい、との思いから、再び大阪へ行くと、鉄工所、バーテンダー、運送業など、住み込みのできるところを探して働き、なんと17回も転職を繰り返したそうで、
森進一さんは、後に、当時のことを振り返り、
僕は連続殺人犯の永山則夫(ながやま のりお)とよく似ていると比較される。
集団就職で都会に出て、居場所が見つけられなくて、転々としていた。
僕が永山則夫になってもおかしくなかった。僕には、母がいたから、踏みとどまっていられた。
と、語っています。
永山則夫死刑囚
(永山則夫死刑囚は、1968から1969年にかけて、「連続ピストル射殺事件」を引き起こし、1997年に死刑が執行されました)
のど自慢番組「リズム歌合戦」で優勝しスカウトされる
そんな辛い日々の中、森進一さんが大阪の串カツ屋で働いていると、芸能関係のお客さんに、当時まだ無名に近かった、「ジャニーズ事務所」の話を聞いたそうで、
興味を持ち、1965年に上京すると、右も左も分からない東京で、当初は井の頭公園で野宿していたそうですが、やがて、親戚の家に下宿させてもらうようになり、荻窪のラーメン屋で働くことになったのだそうです。
そして、その後、親戚の叔母さんに勧められ、のど自慢番組「リズム歌合戦」に出場すると、東京タワーで行われた予選を通過し、あれよあれよと本戦を5週連続勝ち抜き、見事優勝したそうで、
(森進一さんは、アントニオ古賀さんの「その名はフジヤマ」や、安達明さんの「女学生」をマラカスを振って歌ったそうです)
その時、審査委員だったチャーリー石黒さん(バンド「東京パンチョス」のリーダー)に、「プロにならないか」と、スカウトされたのだそうです。
「森進一の若い頃はポップスから演歌に転向!デビューからのヒット曲や経歴は?」に続く
ポップス系の歌手としてデビューする予定が、かすれ声のため、一転、演歌歌手としてデビューすることとなり、1966年、「女のためいき」でデビューすると、たちまち大ヒットし、 甘いマスクとかすれ声が多くの人々を引きつけ、以降、 …