ポップス系の歌手としてデビューする予定が、かすれ声のため、一転、演歌歌手としてデビューすることとなり、1966年、「女のためいき」でデビューすると、たちまち大ヒットし、
甘いマスクとかすれ声が多くの人々を引きつけ、以降、「命かれても」「花と蝶」「港町ブルース」「おふくろさん」ほか、ヒット曲を連発した、森進一(もり しんいち)さん。
今回は、そんな森進一さんの、若い頃のヒット曲や経歴をご紹介します。
「森進一の生い立ちは?少年時代は父親が蒸発し極貧!中卒で家計を支えていた!」からの続き
ポップス系歌手を目指すも、かすれ声がネックになっていた
1965年、のど自慢番組「リズム歌合戦」で見事優勝を果たし、審査委員だったチャーリー石黒さんにスカウトされた森進一さんは、チャーリー石黒さんの内弟子となり、チャーリー石黒さんの自宅の離れに住み込むと、
若くルックスも良かったため、ポップス系の歌手を目指したそうですが、
チャーリーさん、あの声ではムリだよ
と、関係者が言っている声が聞こえたこともあったそうで、
声がかすれ気味だったことが影響してか、何度オーディションを受けても、全く駄目だったそうです。
デビュー曲「女のためいき」が大ヒット
そんな中、ある日、森進一さんが、なかなか芽が出ない自分にいてもたってもいられなくなり、
夜中に、母屋にあるチャーリー石黒さんの部屋の雨戸を叩き、
見込みがないなら、そう言ってください。僕には回り道をしている時間がないのです。
と、訴えると、
その剣幕に、チャーリー石黒さんは慌てたのか、まもなく、ポリドールレコードから、「恋と涙とためいき」という曲でデビューが決定。
(ただ、かすれ声のせいで、ポップス系の歌手ではなく、演歌歌手としてのデビューとなったそうです)
その後、森進一さんは、作曲家の猪俣公章さんのもとに預けられて、デビュー曲のレッスンを重ね、猪俣公章さんが、練習曲として吹き込んだ「女の裏町」という曲のテープをビクターへ持ち込むと、そのテープを聴いたビクターの部長が、森進一さんのかすれたような声を気に入ったそうで、
ポリドールレコードからのデビューはとりやめとなり、森進一さんは、1966年、「女のためいき」(「女の裏町」から改題)でビクターよりデビューすることになったのだそうです。
「女のためいき」
(当時、ビクターは、森進一さんと同じような声質の青江三奈さんのデビューを手がけており、森進一さんは青江三奈さんとほぼ同時期にデビューし、「ため息路線」として売り出されたのでした)
すると、「女のためいき」は、デビュー曲でありながら、80万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。
(その一方で、森進一さんのかすれ声には、「一発屋」「ゲテモノ歌手」などといった、マスコミからの酷評もあったそうです)
2ndシングルから5thシングルまでは全く売れなかった
そんな森進一さんは、その後も、
- 1966年6月には、「東京みれん」(2ndシングル)
- 1966年10月には、「女の波止場」(3rdシングル)
- 1967年1月には、「女の酒場」(4thシングル)
- 1967年7月には、「女の岬」(5thシングル)
と、立て続けにシングルをリリースするのですが・・・
売上はパッとしませんでした。
「命かれても」「花と蝶」がミリオンセラー
そんな、歌手として先の見えない状況の中、家族を養うことを何より優先して考えていた森進一さんは、歩合制の事務所に移籍して、キャバレー回りで短期に稼ぎ、その稼いだお金で鹿児島ですし屋を開こうかとも、真剣に考えていたそうですが、
1967年9月にリリースした6枚目のシングル「命かれても」が、100万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、
「命かれても」
続く1967年12月にリリースした、7枚目のシングル「盛り場ブルース」も大ヒット。
「盛り場ブルース」
その後、
1968年2月にリリースした「湯の町の女」(8thシングル)は、低迷するも、
「湯の町の女」
1968年5月にリリースした「花と蝶」(9thシングル)が、再び100万枚を売り上げる大ヒットとなり、
「花と蝶」
この年の年末には、デビュー3年目にして、「第19回NHK紅白歌合戦」初出場も果たしたのでした。
ちなみに、森進一さんは当時を振り返り、
浮き沈みの激しい世界ですので、常に覚悟はきめていました。
デビュー3年目に、NHK紅白歌合戦に初出場できた時は、「やっと、歌手として認められた」と、そんな気持ちでした。
と、語っています。
「港町ブルース」が自身最大の売上120万枚を記録
そんな森進一さんの勢いは止まらず、その後も、
1968年7月にリリースした「ひとり酒場で」
「ひとり酒場で」
同年11月にリリースした「年上の女」
「年上の女」
が、次々とヒットすると、
1969年4月にリリースした「港町ブルース」は、発売2週間余りでオリコンチャートのベストテンに初登場し、その後、5週にわたり1位を獲得して、自身最高となる120万枚もの売上を記録し、
森進一さんは、弱冠22歳という若さで、「第11回日本レコード大賞最優秀歌唱賞」を受賞するほか、この年の「第20回NHK紅白歌合戦」では、出場2回目にしてトリを務めるなど、人気歌手としての地位を確立したのでした。
「港町ブルース」
そして、1970年には、鹿児島から家族を東京に呼び寄せ、東京世田谷区深沢に一軒家を借りて家族4人で住み始めたのだそうです。
(ちなみに、2軒隣は王貞治選手の家だったそうです)
「おふくろさん」が大ヒット
さらに、森進一さんは、1971年5月にリリースした「おふくろさん」(20thシングル)も大ヒットし、
「おふくろさん」
「第22回NHK紅白歌合戦」では、再びトリを務めるなど、押しも押されぬ人気歌手となったのですが・・・
「森進一の元嫁は大原麗子と森昌子!離婚原因は?息子は?襟裳岬?」に続く
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