1973年、「恋人は君ひとり」でアイドル歌手としてデビューされるも、まったく売れなかった、吉幾三(よし いくぞう)さん。しかし、その後、1977年、フォークソング「俺はぜったい!プレスリー」、1984年、ラップを取り込んだ「おら東京さ行くだ」、1986年、正統派演歌「雪國」とヒットを記録し、すっかり、お馴染みの歌手となられています。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
吉さんは、1952年11月11日生まれ、
青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)のご出身、
身長178センチ、
体重70キロ、
靴のサイズは25.5センチ、
血液型はB型、
本名は、
鎌田善人(かまた よしひと)、
学歴は、
金木町立金木南中学校卒業、
趣味は、お酒、
ちなみに、旧芸名は、
「山岡英二」だったそうです。
少年時代は民謡の歌い手
吉さんは、お父さんが民謡の歌手、
お母さんが踊り子という家庭に生まれ、
11歳から14歳くらいまで、
両親と一緒に歌を歌って村を回るという、
貧しい生活をされていたのですが、
まだ幼い吉さんが登場すると、
お客さんの「おひねり(現金)」の額がアップしたそうで、
そのお金が生活費になっていることを知っていた吉さんは、
嫌いな民謡を我慢して歌っていたそうです。
歌手になるために上京~「米山正夫歌謡学園」で学ぶ
そして、両親を楽にさせてあげたい、との気持ちから、
中学生の時、歌手を目指そうと考え始めると、
中学卒業後には、お父さんの反対を押し切り、
お母さんが買ってくれたガットギター
(クラシックギターやフラメンコギターのこと)と、
何も入っていないトランクを持って上京。
(お母さんは、歌手になれなかったら、流しになるようにと、
3千円という大金をはたいて、ガットギターを買ってくれたのだとか)
上京後は、上野の料理屋で働いていたお姉さんの家に、
しばらく住まわせてもらい、
アルバイトをしながら、米山正夫さん(※1)が主宰する、
「米山正夫歌謡学園」に週1~2回通い始め、
月に1度か2度あった米山さんの直接レッスンの際には、
東北人(特に津軽)の「き」という発音を怒られながら、
(時には笑われながら)レッスンを重ねられたのでした。
(※1^ 米山正夫さんは、ヤンマーディーゼル提供の天気予報の、
テーマ曲「ヤン坊マー坊の唄」などを作曲されました。)
「恋人は君ひとり」でアイドル歌手としてデビュー
そして、1973年3月、吉さんは、「山岡英二」名義で、
アイドル歌手として、ヤンマーディーゼルのCMソング、
「恋人は君ひとり」でデビューされるのですが・・・
まったく売れずに終わってしまったそうで、
吉さんは、その時のことを振り返り、
僕は、最初から演歌が歌いたかったんです。
でも、「ヤン坊マー坊天気予報」とか「赤いトラクター」
とかを作曲されていた、師匠の米山正夫先生が、「ヤンマーのコマーシャルソングでデビューさせる」って言って、
「恋人は君ひとり」でデビューしたんです。当時、料理人として板場に立っていたので、
髪は短いのに、ヘンな宇宙服みたいなの着せられて、
振付につれて行かれて、「オレは何をやらされるんだろう?」って思いましたよ。
正直言って、絶対売れないって思ってましたね(笑)
と、明かされています。
自作曲「俺はぜったい!プレスリー」がヒット
その後、吉さんは、喫茶店でアルバイトをしながら、
水前寺清子さんや北島三郎さんの前座として、地方を回られるのですが、
その頃、アメリカのロカビリー歌手、
エルビス・プレスリーが亡くなったそうで、
スナックで酔っぱらって、ギター片手に、
「俺はぜったい!プレスリー」という曲を即興で歌われると、
人づてにレコード会社の耳に入り、
1977年11月、「吉幾三」に改名させられ、
「俺はぜったい!プレスリー」で再デビュー。
「俺はぜったい!プレスリー」
すると、いきなりヒットしたそうで、
その後、
1978年6月「俺はぜったいスーパー・スター /坂道は長く」
10月「と・も・子 c/w もうだめね二人」
1979年4月「あそばれた男 c/w ナチュラルに」
1980年2月「縁し唄 c/w 酒の宿」
1981年11月「ママ c/w 三十才」
1982年8月「ふるさとワルツ c/w 酒・夜・時々・・・雨」
と、シングルをリリースされるのですが・・・
まったく売れず、再び低迷してしまいます。
「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット
そんな吉さんは、1984年には、
友人だった千昌夫さんに提供した「津軽平野」がヒットし、
作曲家としての才能も見せているのですが、
(千さんが、吉さんの再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」を聴き、
「面白いヤツだ」と思って、吉さんに声をかけたことから、
お二人の付き合いが始まったそうです)
吉さん自身は歌手としてまったく売れなかったことから、
歌手はもう辞めようかと思われていたところ、
千さんに、
おまえの頭には何百億の才能が眠っている
と、説得されたそうで、
吉さんが、アメリカで流行し始めていたラップに、
着想を得て作詞作曲し、レコード会社に売り込むも、
どこにも断られていた「俺ら東京さ行ぐだ」を、
千さんが原盤権を買ってプロデュースし、
同年11月にリリースされると、大ヒット。
「雪國」が大ヒット
さらに、吉さんは、那須の温泉での宴会の際、
やはり、酔っ払ってギター片手に即興で歌った、
正統派演歌「雪國」をリリースしようとすると、
千さんから、
「俺はぜったい!プレスリー」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか
歌ってきて、「今さら正統派の演歌なんか売れるわけないだろ!」売れなかったら、今ある曲の中から俺が曲を選ぶから、
それを出せ!俺の言うことを聞け!
と、猛反対されるのですが、
1986年2月、千さんの反対を押し切り、
「雪國」をリリースすると、
自身初のオリコン1位を獲得する大ヒットを記録。
「雪國」
千さんは、もしこの曲が売れたら、
裸で逆立ちをして原宿を歩いてやる
とまでおっしゃっていたそうですが、
二人で抱き合って喜んだそうで、
吉さんは、見事、コミックソング歌手から、
本格的な演歌歌手への路線変更に成功されたのでした。
(作詞・作曲家としても活動されています)
妻は?
そんな吉さんの、
気になるプライベートですが、
吉さんは、デビュー後、なかなか売れず、喫茶店でアルバイトをしながら、
他の歌手の前座などをされていた頃(1974~1977年頃)には、
すでに奥さんとお子さんがおられたようです。
ただ、吉さんは、その当時、
ほとんど家にはいなかったそうで、
女房もらって、子どももできて、
(売れるまで)女房は大変だっただろうね。
と、おっしゃっていました。
娘は?
お子さんは3人いらっしゃるそうで、
まず1人目は、「KU」名義で、
歌手として活動されている、長女の鎌田幾美さん。
「KU」(鎌田幾美)さんと吉さん。
幾美さんは、青森県の私立高でピアノを専攻すると、
卒業後は、ライブ活動や自主制作盤の販売など音楽活動をされ、
その後、2017年8月には、
アルバム「Which KU do you like?」でメジャーデビュー。
このアルバムには、吉さんの名曲「雪國」の英語カヴァー、
「YUKIGUNI」も収録されているそうです。
また、2人目は、次女の鎌田三美(かまた みみ)さんで、
寿三美(ことぶき みみ)名義で、
舞台を中心に女優として活動されているそうです。
寿三美(鎌田三美)さん
そして、3人目のお子さんですが、
男の子か女の子かも分かりませんでした。
ただ、吉さんの曲に、「妻へ娘へ・・・そして息子へ」
という曲があることから、もしかしたら、
息子さんなのかもしれませんね。
さて、いかがでしたでしょうか?
ネット上では、2007年末頃から、
「俺ら東京さ行ぐだ」のミックス曲が注目を集め、
2008年4月頃からは、「ニコニコ動画」「ユーチューブ」
などの投稿動画サイトに大量にアップされ、再ブレイクを果たされた吉さん。
どんなミックスにでもマッチしやすいことから、
大量に投稿されるようになったそうで、
「吉さん×初音ミク」なんていうのもあるそうですが、
吉さんは、このことを好意的にとらえられているそうで、
そんな柔軟さが、吉さんの成功の秘訣なのかもしれませんね。
すでに60代も後半に差し掛かる吉さんですが、
まだまだ、目が離せません!!