1973年、「恋人は君ひとり」でアイドル歌手としてデビューした時はさっぱりも、1977年、フォークソング「俺はぜったい!プレスリー」で再デビューすると、たちまちヒットとなった、吉幾三(よし いくぞう)さん。
今回は、吉幾三さんの若い頃(アイドル歌手としてデビュー以降)から現在までのヒット曲(シングル)ほか経歴を時系列でご紹介します。

「吉幾三の生い立ちは?幼少期は貧しく中卒で歌手を目指して上京していた!」からの続き
吉幾三は20歳の時に「恋人は君ひとり」でアイドル歌手デビューするも全く売れなかった
お父さんの反対を押し切り、中学の卒業式の数日後、15歳で歌手を目指して上京すると、(既に出稼ぎの為に上京していた)お姉さんの家にしばらく住まわせてもらい、アルバイトをしながら、週1、2回、「米山正夫歌謡学園」に通ったという吉幾三さんは、
(米山正夫さんは、ヤンマーディーゼル提供の天気予報のテーマ曲「ヤン坊マー坊の唄」などを作曲されました)
1973年3月1日、20歳の時には、「山岡英二」名義で、アイドル歌手として、ヤンマーディーゼルのCMソング「恋人は君ひとり」でデビューしたそうですが・・・

「恋人は君ひとり」
全く売れなかったそうで、
吉幾三さんは、その時のことを振り返り、
僕は、最初から演歌が歌いたかったんです。でも、「ヤン坊マー坊天気予報」とか「赤いトラクター」とかを作曲されていた、師匠の米山正夫先生が、「ヤンマーのコマーシャルソングでデビューさせる」って言って、「恋人は君ひとり」でデビューしたんです。
当時、料理人として板場に立っていたので、髪は短いのに、ヘンな宇宙服みたいなの着せられて、振付につれて行かれて、「オレは何をやらされるんだろう?」って思いましたよ。正直言って、絶対売れないって思ってましたね(笑)
と、語っています。
吉幾三は25歳の時に即興の自作曲「俺はぜったい!プレスリー」がヒットしていた
その後、吉幾三さんは、喫茶店でアルバイトをしながら、水前寺清子さんや北島三郎さんの前座として地方を回っていたそうですが、
その頃、アメリカのロカビリー歌手であるエルビス・プレスリーが亡くなったことから、スナックで酔っぱらって、ギター片手に「俺はぜったい!プレスリー」という曲を即興で歌っていると、これが人づてにレコード会社の耳に入ったそうで、
1977年11月25日、「吉幾三」に改名させられ、「俺はぜったい!プレスリー」で再デビューを果たすと、ついにヒットを記録したのでした。

「俺はぜったい!プレスリー」
吉幾三が25歳~29歳の時は再び全く売れなくなっていた
そんな吉幾三さんは、その後も、
- 1978年6月「俺はぜったいスーパー・スター/坂道は長く」
- 1978年10月「と・も・子 c/w もうだめね二人」
- 1979年4月「あそばれた男 c/w ナチュラルに」
- 1980年2月「縁し唄 c/w 酒の宿」
- 1981年11月「ママ c/w 三十才」
- 1982年8月「ふるさとワルツ c/w 酒・夜・時々・・・雨」
と、シングルをリリースしたそうですが・・・
全く売れず、再び低迷してしまったといいます。
吉幾三は31歳の時に千昌夫に提供した「津軽平野」が大ヒット
それでも、1984年3月25日、31歳の時には、友人の千昌夫さんに提供した「津軽平野」が大ヒットを記録し、一躍、吉幾三さんは作曲家として注目を集めています。

「津軽平野」
吉幾三は「津軽平野」の提供と引き換えに千昌夫から借金していた
実は、吉幾三さんは、千昌夫さんに声をかけられたことがきっかけで、千昌夫さんと交流を深めていたそうですが、
(千昌夫さんは、吉幾三さんの再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」を聴き、「面白いヤツだ」と思って吉幾三さんに声をかけたのだそうです)
ある日のこと、千昌夫さんに呼ばれて、千昌夫さんの自宅を訪れると、
面白い歌はないか
と、聞かれたそうで、
吉幾三さんが、「俺ら東京さ行ぐだ」を聞かせると、千昌夫さんは、ひっくり返って大笑いし、「これは売れる」と太鼓判を押してくれたそうですが、
吉くん、俺に歌えるような歌はない?
と、別の曲を催促されたそうで、
吉幾三さんが、
親父(おどう)一人で・・・
と、「津軽平野」の一部を歌い始めると、
これを聴いた千昌夫さんは、
俺ね、小さい時に出稼ぎでね、親父を事故で亡くしてるんだ
と、涙を流したそうです。
そこで、吉幾三さんは、千昌夫さんがこの曲を気に入ってくれたと確信したそうで、
途中で歌うのをやめ、千昌夫さんに続きをせがまれると、
聴かせる前にちょっと相談がある
金貸してくんないか。いろいろと苦しいんで、お金貸してくんないか
と、借金の無心をし、
金額を伝えると、千昌夫さんは、
そのぐらいの額だったら・・・
と、了承してくれたそうですが、
まだ信用できない吉幾三さんは、続きを少し歌ってはストップして、
本当に貸してくれるの?
と、確かめ、
また、ワンコーラス歌うとストップして、
千さんそれじゃあ金庫見に行ってきて。ツーコーラス聴かせるから
と、言うと、
千昌夫さんは、2階の金庫を見に行き、ちょうど貸せるだけの現金があったとして、(莫大な金額だったそうですが)お金を貸してくれたのだそうです。
すると、その後、この「津軽平野」は、千昌夫さんが歌って大ヒットとなったそうで、吉幾三さんは、千昌夫さんに借りたお金を返したそうですが、
千昌夫さんは、
(吉幾三さんの)女房に(プレゼントを)買ってあげなさい
と、言って、そのお金を受け取らなかったそうで、
吉幾三さんは、そんな千昌夫さんについて、
心の大きい人だなあと思って。ああ僕はこういう人を見習わなきゃいけないなと思って
と、語っています。
吉幾三は32歳の時に「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット
こうして、千昌夫さんに提供した「津軽平野」のヒットで作曲家としての才能が開花した吉幾三さんですが、歌手としての吉幾三さんはというと、全く売れなかったことから、もう歌手は辞めようかと思っていたそうですが、
そんな中、千昌夫さんに、
おまえの頭には何百億の才能が眠っている
と、説得されたそうで、
吉幾三さんが、アメリカで流行し始めていたラップに着想を得て作詞作曲し、レコード会社に売り込むも、どこにも断られていたという「俺ら東京さ行ぐだ」を、千昌夫さんが原盤権を買ってプロデュースし、同年11月25日にリリースすると、大ヒットを記録しています。

「俺ら東京さ行ぐだ」
吉幾三は33歳の時に「雪國」が自身初のオリコン1位となる大ヒット
そんな吉幾三さんは、今度は、那須の温泉での宴会の際、酔っ払ってギター片手に即興で歌った、正統派演歌「雪國」を、1986年2月25日にリリースすると、自身初のオリコン1位を獲得する大ヒットを記録し、見事、コミックソング歌手から、本格的な演歌歌手への路線変更にも成功しています。

「雪國」
ただ、実は、この「雪國」は、リリースする前、千昌夫さんに報告すると、
「俺はぜったい!プレスリー」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか歌ってきて、「今さら正統派の演歌なんか売れるわけないだろ!」売れなかったら、今ある曲の中から俺が曲を選ぶから、それを出せ!俺の言うことを聞け!
(もしこの曲が売れたら)裸で逆立ちをして原宿を歩いてやる
とまで言われて、猛反対されたといいます。
それでも、吉幾三さんが、千昌夫さんの反対を押し切ってリリースし、大ヒットとなると、二人で抱き合って喜んだのだそうです。
吉幾三は35歳の時に「酒よ」、37歳の時に「酔歌」が大ヒット
その後も吉幾三さんは、1988年9月1日にリリースした「酒よ」が「雪國」に次ぐ大ヒットとなり、演歌歌手としての地位を確立すると、

「酒よ」
1990年6月25日にリリースした「酔歌」も、「雪國」「酒よ」に並ぶ大ヒットとなり、吉幾三さんは、演歌歌手としての地位を不動のものにしたのでした。

「酔歌」
吉幾三は55歳の時に「IKZOブーム」が巻き起こり再ブレイクしていた
また、吉幾三さんは、2007年末頃(吉幾三さん55歳)から、ネット上で「俺ら東京さ行ぐだ」と他の曲のミックス曲が動画サイトで流されるようになって注目を集めると、
2008年4月頃からは、ニコニコ動画やYouTubeなどの投稿動画サイトに大量にアップされて「IKZOブーム」が巻き起こり、再ブレイクを果たしています。
ちなみに、「俺ら東京さ行ぐだ」は、どんなミックスにでもマッチしやすいことから、大量に投稿されるようになったそうで、「吉さん×初音ミク」なんていうのもあるそうですが、
吉幾三さんは、このことについて、
知らない間に、多くの人が俺の曲で楽しんでくれていたんだね
と、語るなど、好意的に捉えており、
そんな柔軟さが、吉幾三さんの成功の秘訣なのかもしれませんね。
(吉幾三さんは、「IKZOブーム」が巻き起こっていた頃、C型肝炎で闘病中でした)
「吉幾三×マイケル・ジャクソン IKUZO スリラー」
吉幾三のシングル
それでは、最後に、吉幾三さんの主なシングルをご紹介しましょう。
- 1973年「恋人は君ひとり」

「恋人は君ひとり」 - 1973年「君は無敵の三冠王」

「君は無敵の三冠王」 - 1977年「俺はぜったい!プレスリー」

「俺はぜったい!プレスリー」 - 1978年「俺はぜったいスーパー・スター」
- 1978年「と・も・子」

「と・も・子」 - 1979年「あそばれた男」
- 1980年「縁し唄」
- 1981年「ママ」
- 1982年「ふるさとワルツ」

「ふるさとワルツ」 - 1984年「俺ら東京さ行ぐだ」

「俺ら東京さ行ぐだ」 - 1985年「羅臼」
- 1985年「ゲゲゲの鬼太郎」
- 1985年「おじさんサンバ」
- 1986年「雪國」

「雪國」 - 1987年「海峡」

「海峡」 - 1987年「民謡はふるさと」
- 1988年「酒よ」

「酒よ」 - 1989年「港」
- 1990年「酔歌」

「酔歌」 - 1991年「女のかぞえ唄」
- 1992年「夜更けのメロディー」
- 1993年「酔待酒」
- 1993年「門出」
- 1994年「男の船唄」
- 1994年「酒よ…追伸(スーパー・ロング・ヴァージョン)」
- 1994年「娘に…」
- 1995年「情炎」

「情炎」 - 1996年「津軽平野」
- 1996年「エレジー~哀酒歌~」
- 1997年「岩木川」
- 1997年「哀のブルース」

「哀のブルース」 - 1998年「旅の途中で…」
- 1998年「冬鴎」
- 1999年「冬の酒」
- 2000年「さくら咲く頃に」
- 2000年「漢江(ハンガン)」
- 2001年「夢で抱かれて」
- 2001年「立佞武多」
- 2001年「出逢いの唄」
- 2001年「ありがとうの唄」
- 2002年「風の子守唄」

「風の子守唄」 - 2002年「北限海峡」
- 2002年「約束~君に逢いたくて」
- 2002年「Dream」
- 2004年「男ってやつは…」
- 2004年「TOFU」
- 2004年「運河」
- 2004年「酒場のしんちゃん」
- 2005年「父子じゃないか」

「父子じゃないか」 - 2007年「ありがとうを言いたくて」
- 2007年「かあさんへ」
- 2007年「やがて世界が歌いだす」
- 2008年「NDA![んだ!]」
- 2009年「敬愛~夕陽の向こうに~」
- 2010年「秋風」
- 2010年「北の出会い旅」

「北の出会い旅」 - 2011年「男酔い」
- 2012年「その昔」
- 2013年「男っちゅうもんは」
- 2015年「海に抱かれに」
- 2016年「ららばい」
- 2017年「ひとり北国」

「ひとり北国」 - 2018年「男うた」
- 2019年「人生~みち~」
- 2019年「TSUGARU」
- 2019年「涙…止めて」
- 2020年「百年桜」
- 2021年「港町挽歌」
- 2021年「ふるさとチョイス」
- 2022年「頼り頼られ…」

「頼り頼られ…」
など、数多くリリースしています。
「吉幾三の病気は潰瘍性大腸炎・結腸憩室炎・C型肝炎・不整脈!現在は?」に続く
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