幼い頃から歌を歌うことが好きで、4歳の時には、漠然と歌手に憧れるようになると、12歳の時には、同い年の小林幸子さんが歌手デビューしたのを知り、本気で歌手を目指すようになったという、研ナオコ(けん なおこ)さんは、高校1年生の時、ついに上京します。

「研ナオコは幼少期同年の小林幸子のデビューを見て歌手を志していた!」からの続き

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高校1年生の時母親の反対を押し切り上京

朝から晩まで汗水たらして働き詰めだったお母さんを楽にさせてあげたいと、歌手になることを決意した研さんですが、両親に歌手になりたいと伝えると、お母さんは、「歌手なんて」と猛反対。

一方、お父さんはというと、賛成とは言わなかったものの、オーディションがあると、東京まで連れて行ってくれるなど、そっと応援してくれたそうで、1969年、研さんは、お母さんの反対を押し切り、高校を1年で中退し、上京したそうです。

「東宝レコード」に入社

こうして、研さんは、横浜のおじさんの家に居候しながら、ボイスレッスンを受けたり、音楽学院などを回るなど、積極的に活動していたそうですが、

おじさんが「東宝会館」の電気室に勤めていた縁で、設立予定だった「東宝レコード」のオーディションを受け、美空ひばりさんの「悲しい酒」と黛ジュンさんの「雲にのりたい」を歌うと、見事合格。「東宝レコード」に入社が決定したそうです。

ただ、「東宝レコード」の設立まで遊んでいる訳にもいかず、歌のレッスンと両立して、「日比谷スカラ座」のエレベーターガールとして働いたのだそうです。

「大都会のやさぐれ女」でデビューするもパッとせず地方営業の日々だった

そして、1971年4月、17歳の時には、ついに、「東宝レコード」の第1号歌手として、シングル「大都会のやさぐれ女」で歌手デビューするのですが・・・

ほとんど売れず、マネージャーと夜行列車に乗って、喫茶店やキャバレーなどを中心に、日本全国をキャンペーンで回る日々を送ったそうで、

色紙、カラオケテープを持ち、毎日、レコードジャケットと同じ服を着て、スナックに飛び込み営業をしては、レコードを手売りしていたそうですが、その間(東京に戻るまで)2ヶ月間もお風呂に入れなかったり、冬の北海道でミニスカートの衣裳だったりと、とても厳しいものだったそうです。


「大都会のやさぐれ女」

また、当時は、テレビに出演するためには、オーディションに合格しなければならず、落ちてばかりだった研さんは、テレビで顔を売ることもできず、同年10月、2枚目のシングル「屋根の上の子守唄」を発売するも、相変わらず、ほとんど売れなかったのでした。


「屋根の上の子守唄」より。

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辞めたいと思ったことは一度もなかった

ただ、そんな厳しい状況下でも、研さんは、

いろんなことがありましたが、自分のなかでは苦労と思ってないんですよ。食べていくためにアルバイトをしたり、曲をもらってデビューしてからも、夜行列車で全国の小っちゃなキャバレーやスナックをまわりましたが、全然売れなかった。

でも私は、みんな同じようにやってるもんだと思っていたので、全然、苦労って思わなかったんです。だから私は、いつでもああいうことができるんです。何があっても平気ですね。

(辞めたいと思ったことは)ないです。一度もない。忙しくて、寝る時間がなくて身体がしんどいときはあったけど、辛いというのはなかったです。

時代が今と私がデビューした頃とは違いますよね。私たちが10代20代の頃は、1回仕事についたら絶対やめちゃいけないという雰囲気があった。特に私は親の反対を押し切って東京へ出てきたから、決めたことは最後までやり通すという決意があったの。

もちろん好きで始めたことだったし。だから辛い、嫌だと思ったことはないですね。今は「一度決めたら、なにがなんでも…」というような感覚の時代じゃないでしょ。若い世代のなかには、フリーに生きたい人も多いと思うんですよ。

と、語っており、「辛い」「辞めたい」と思ったことはなかったのだそうです。

「研ナオコが若い頃は「ミノルタカメラ」のCMで人気を博していた!」に続く

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