ザ・スパイダース」で一世を風靡すると、その後、プロデューサーに転身し、タモリさん、研ナオコさん、堺雅人さんらを次々と発掘・育成し、”芸能界のドン”として日本のエンターテインメント界を牽引し続けてきた、田邊昭知(たなべ しょうち)さん。

そんな田邊昭知さんは、少年時代は手に負えない不良だったそうですが、将来を心配したお母さんが、実家の旅館に下宿していた「原信夫とシャープス&フラッツ」のベーシスト・舟木明行さんに相談したことをきっかけに、「原信夫とシャープス&フラッツ」のボーヤ(雑用係)として働き始めると、その後、ドラムを始めたといいます。

今回は、田邊昭知さんの生い立ち(幼少期~「キャクタス・ワゴン」でドラム)を時系列でご紹介します。

田邊昭知

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田邊昭知のプロフィール

田邊昭知さん(本名)は、1938年11月15日生まれ、
東京都渋谷区の出身、

学歴は、
明治大学付属明治中学校卒業?

ちなみに、ウィキペディアには、「高千穂高等学校卒業」とありますが、高千穂高等商業学校は、1944年3月に高千穂経済専門学校(旧制)に改称された後、1950年3月(田邊昭知さん11歳)には、新学制に移行して、高千穂商科大学へと昇格(商学部商学科)しており、「高千穂高等学校卒業」というのは違和感があります。

かといって、「高千穂商科大学卒業」と読み替えるのも、通常、1938年11月生まれの人が大学を卒業するのは、1961年3月となり、田邊昭知さんは、1960年秋の終わり頃には、堀威夫さんと守屋浩さんの3人で「堀プロダクション(現・ホリプロ)」を設立しているので、これも違和感があります。

田邊昭知は旅館を経営する母親に女手一つで育てられていた

田邊昭知さんは、旅館を経営するお母さんのもと誕生すると(4人きょうだいだったそうです)、お父さんのいない家庭で、お母さんに女手一つで育てられたそうですが、

幼い頃は、お母さんが明るい人だったこともあり、お父さんのいない寂しさを感じることはなく、また、お母さんの経営手腕から、旅館はいつも繁盛しており、経済的にも苦労することはなかったそうです。

田邊昭知は不良少年だった

そんな環境の中で育った田邊昭知さんは、少年の頃から、自分がしっかりして母親を支えなければ、という自立心が人一倍強かったそうですが・・・

何をどうすればいいか分らず、そんな苛(いら)立ちからか、いつしか、手に負えないほどの不良になっていったといいます。

田邊昭知は15歳の時に初めてアメリカ文化に触れると心を鷲掴みにされていた

そこで、息子の将来を心配したお母さんが、旅館に下宿していた「原信夫とシャープス&フラッツ」のベーシスト・舟木明行さんに、(田邊昭知さんに内緒で)相談すると、

(旅館は部屋が空いていると下宿も受け入れていたそうです)

舟木明行さんは、

お母さん、じゃあ僕の仕事場に連れて行ったらどうですかね。非行とか、そういうのから抜けられるかもしれない

と、提案してくれたそうで、

田邊昭知さんは、15歳の時、横浜のEM(米軍兵員クラブ)へと連れて行かれたのだそうです。

(「原信夫とシャープス&フラッツ」は、海軍軍楽隊員だった原信夫さんが、1951年に結成した17人編成のビッグバンド)

すると、当時、接収されていた横浜には、焼け跡のあちこちに”カマボコ兵舎”と呼ばれるカマボコ屋根のプレハブ家屋が立ち並んでいたそうですが、そこはまさに、日本の中にある”アメリカ”そのものだったそうで、

田邊昭知さんは、EM(米軍兵員クラブ)に足を踏み入れた瞬間、これまでの人生で一度も嗅いだことのない、床のワックス、洋モクの煙、ビールやコーラなどが入り混じった独特の”アメリカの匂い”を感じ、

そんな空間の中、「原信夫とシャープス&フラッツ」が奏でるビッグバンドの生演奏を耳にした瞬間、完全に心を鷲掴(わしづか)みにされたのだそうです。

田邊昭知は15歳の時に「原信夫とシャープス&フラッツ」のボーヤ(雑用係)となっていた

そんな田邊昭知さんは、すぐに、「原信夫とシャープス&フラッツ」のボーヤ(雑用係)として働き始めたそうですが、

当時、ジャズは、世間から、「ジャズは不良がやるもの」「ジャズは鶏小屋を引っ掻き回したような音楽」と揶揄されることが多かった中、

リーダーの原信夫さんは、ジャズは自由なものと考える一方で、自由とルーズを履き違えることを許さず、

  • ステージ前に酒を飲まない
  • 遅刻をしない

など、バンド内に厳しい鉄則を敷いており、田邊昭知さんには、このやり方がとても性に合っていたそうで、

田邊昭知さんは、ボーヤの中で一番若かったそうですが、すぐに、ボーヤの中でも、一目置かれた存在となっていったのだそうです。

(田邊昭知さんは、頭の回転が速く、人心掌握が巧みだったそうで、ボーヤ仲間たちを上手に動かしていたといいます)

田邊昭知は15歳の時にトランペットかベースかで迷っていた

そして、田邊昭知さんが、ボーヤになって少し経った頃には、「原信夫とシャープス&フラッツ」のトランペット奏者・福原彰さんに、

おい、昭坊、何もやらないのはダメだから、これで練習してみろ

と、言われ、マウスピースをもらったそうですが、

(さすがにトランペット本体はもらえなかったそうです)

ベーシストの舟木明行さんからも、年の離れた弟のようにかわいがってもらっており、田邊昭知さんも舟木明行さんを兄のように慕っていたことから、

ベーシストになるか、トランペッターになるか、どちらをやるか迷ったといいます。

田邊昭知は15~16歳頃に堀威夫に誘われ「ワゴン・マスターズ」のボーヤとなっていた

そんな中、田邊昭知さんは、カントリーバンド「ワゴン・マスターズ」のメンバーだった堀威夫さん(後の「ホリプロ」創設者)と知り合うと、

明晰な頭脳を高く買われて「ワゴン・マスターズ」に誘われ、「ワゴン・マスターズ」のボーヤとして働くようになり、やがては、堀威夫さんを兄と慕うようになったそうですが、

「ワゴン・マスターズ」には、「大学卒業とともに脱退する」という不文律があったことから、1955年、田邊昭知さんが16歳の時には、堀威夫さんも、大学卒業を機にバンドを去ってしまったそうで、

田邊昭知さんも音楽の道を諦め、「ワゴン・マスターズ」を脱退したのだそうです。

田邊昭知は16歳の時に堀威夫にドラムを勧められていた

そして、夏休みが終わったら学業に専念しようとしていたそうですが・・・

ちょうどその頃、新しいバンドを結成しようとメンバーを集めていた堀威夫さんに声をかけられ、

堀威夫さん:お前んち、旅館やっているんだよな?4万円くらい親からもらえるか?

田邊昭知さん:もらえるかもしれないけど、何で?

堀威夫さん:ドラムの3点セットが4万円で売っている。神田の下倉楽器というところへ行ったら分かるよ。それで太鼓叩け

と、ドラムをすることを勧められたことから、

兄のように慕っていた堀威夫さんの言葉は、すぐに、田邊昭知さんの心に響いたそうで、

田邊昭知さんは、さっそく、お母さんにお金を借り、バス・ドラム一つと、スネアー、ハイハット、シンバルなどのセットを購入したのだそうです。

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田邊昭知は16歳の時に「キャクタス・ワゴン」に加入後ドラムを始めていた

こうして、田邊昭知さんは、堀威夫さんが新たに結成した「キャクタス・ワゴン」のドラム担当となったそうですが・・・

田邊昭知さんはドラムの経験がなかったことから、堀威夫さんには、ふりだけで音は出すなと、きつく言われたのだそうです。

とういうのも、堀威夫さんは、新バンドの結成を思い立つも、プロのミュージシャンを雇う資金がなく、そんな中、機材が高額なドラム担当を、かつての後輩で、実家が旅館を経営していて経済的に余裕のあった田邊昭知さんに白羽の矢を立てていたのだそうです。

ただ、田邊昭知さんはというと、叩いているふりをしているうち、しばしば、スティックがシンバルなどにチーンと当たってしまうことがあったそうで、

楽屋では他のメンバーたちに白い目で見られたほか、

他のメンバーたちが、リーダーの堀威夫さんに、

あいつ、辞めさせてくださいよ。邪魔だから

と、言っているのも聞こえたといいます。

そんな中、田邊昭知さんは悔しくて仕方がなかったそうで、このままではプライドが許さないと、

絶対に誰もが認めるドラマーになってみせる

と、以降、明けても暮れても練習し、ドラムの腕を磨いていったのだそうです。

「田邊昭知の若い頃は?スイング・ウエストを経て堀威夫と共にホリプロを設立!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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