1961年に「田邊昭知とザ・スパイダース」を結成し、1965年5月には、1stシングル「フリフリ」でデビューするも、ブリティッシュ・ビートにミリタリー・ルックをいち早く取り入れたファッションは高く評価されたものの、セールスには結びつかなかったという、田邊昭知(たなべ しょうち)さんですが、
1966年9月15日にリリースした7枚目のシングル「夕陽が泣いている」が大ヒットを記録すると、たちまち、スターダムに駆け上りました。
今回は、田邊昭知さんの、若い頃(「ザ・スパイダース」時代)のヒット曲、「ザ・スパイダース」の解散の真相などを、時系列でご紹介します。

「田邊昭知が「ザ・スパイダース」の7人のメンバーを集めた経緯は?」からの続き
「田邊昭知とザ・スパイダース」は結成当初は「ビートルズ」などのコピーバンドとして活動していた
田邊昭知さんが「田邊昭知とザ・スパイダース」を結成した当初は、かまやつひろしさんが影響を受けていた「ビートルズ」などの「リバプールサウンド」「マージービート」「ブリティッシュ・ビート」と呼ばれるサウンドを主軸にしたコピーバンドとして活動していたそうですが、
やがて、
- 1964年4月には、「ピーター&ゴードン」のバックバンド
- 1965年1月と9月には、「ザ・ベンチャーズ」の前座
- 1965年6月には、「アニマルズ」の前座
- 1965年8月には、「ザ・サファリーズ」や「ハニーカムズ」の前座
- 1966年1月には、「ザ・ビーチ・ボーイズ」の前座
と、来日する海外トップアーティストたちのバックバンドや前座としてステージに立つようになったそうです。
田邊昭知は26歳の時に「田邊昭知とザ・スパイダース」として1stシングル「フリフリ」でレコードデビューするも人気はパッとしなかった
そんな中、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、1965年5月には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューを果たすと、

「フリフリ」
その後も、
- 1966年2月「ノー・ノー・ボーイ」

「ノー・ノー・ボーイ」 - 1966年4月「ヘイ・ボーイ」

「ヘイ・ボーイ」 - 1966年7月「サマー・ガール」

「サマー・ガール」
と、立て続けにシングルをリリースしたそうですが・・・
(※「ノー・ノー・ボーイ」から、「田邊昭知とザ・スパイダース」⇒「ザ・スパイダース」に名称変更)
洋楽ポップスファンからは、大きく注目され、その斬新な音楽性やミリタリールックを取り入れたファッションなどが高い評価を受けたそうですが、当時の日本では、まだまだ、ムード歌謡曲の勢いが強く、セールスはいまいちだったそうです。
(田邊昭知さんは、もともと、「堀プロダクション」の取締役も兼務していたのですが、1966年5月には、「堀プロダクション」内に「ザ・スパイダース」のマネジメント会社「スパイダクション」を設立し、「ザ・スパイダース」のマネージメントも手掛けるようになっています)
田邊昭知は27歳の時に「ザ・スパイダース」として「夕陽が泣いている」が120万枚を売り上げる大ヒット
この状況に、田邊昭知さんは、それまで、ビートルズを真似て自分たちで曲を作り演奏してきたスタイルを考え直し、外部のプロ作曲家を起用してヒットさせることを模索していたそうですが、
そんな中、「堀プロダクション」の社長・堀威夫さんが、
当時のヒットメーカー・浜口庫之助さんに、
堀君、夕焼けというのは、お陽さまが泣いているんだよ
と、言われて、そのロマンティックな言葉に感動し、
それを元にした楽曲の制作を浜口庫之助さんに依頼すると、「夕陽が泣いている」という楽曲を提供(作詞・作曲)してもらったといいます。
ただ、この「夕陽が泣いている」は、いかにも日本の歌謡曲という曲調だったそうで、当初、「ザ・スパイダース」のメンバーは、自分たちが志向する「ブリティッシュ・ビート」の香りが全くしなかったことから、この曲を歌うことに難色を示したといいます。
それでも、田邊昭知さんは、「バラが咲いた」「星のフラメンコ」などの作詞作曲をしてヒットを連発していた浜口庫之助さんの持つ言葉の力を信じて、この「夕陽が泣いている」に賭け、
(田邊昭知さんは、かつて、作詞家の阿久悠さんに「やっぱり言葉よ。俺は待ってるぜ、みたいなキマル言葉をどっかに持ってなきゃ」と石原裕次郎さんのヒット曲を例えに出してアドバイスをしたこともあったそうです)
メンバーを鼓舞して、一丸となって3日間ぶっ続けでレコーディングのための練習を繰り返すほか、
(後にも先にも、「ザ・スパイダース」がレコーディングのために練習したのは、この一度きりだったそうです)
歌謡曲調のこの曲のリズムやアレンジをすべて洗い直し、「ザ・スパイダース」らしいロックテイストのアレンジを加えて、完成にこぎつけると、
1966年9月15日にリリースした、7枚目のシングル「夕陽が泣いている」は、たちまち120万枚以上を売り上げる大ヒットとなったそうで、「ザ・スパイダース」は、一躍スターダムに駆け上ったのでした。

「夕陽が泣いている」
田邊昭知は「夕陽が泣いている」のプロモーションを行わずヨーロッパツアーで”逆輸入”する戦略を立てていた
ちなみに、通常であれば、リリースに合わせて大々的なプロモーションを行うところ、田邊昭知さんは、そうはせず、”海外公演の実績で箔(はく)をつけ逆輸入する”という戦略のもと、「ザ・スパイダース」は、22日間に及ぶヨーロッパツアーを敢行していたそうですが、
田邊昭知さんの作戦どおり、「夕陽が泣いている」は「ザ・スパイダース」が日本にいない間に大ヒットしたそうで、「ザ・スパイダース」のメンバーが帰国すると、羽田空港には非常に多くの若い女性たちが待ち構えていたほか、
ヨーロッパツアーを終えて帰国した日から、テレビ、ラジオ、雑誌ほかあらゆるメディアから引っ張りだことなり、取材・出演依頼が殺到する人気者となったのだそうです。
田邊昭知は「ザ・スパイダース」として「なんとなくなんとなく」「太陽の翼」「風が泣いている」もヒット
そして、「ザ・スパイダース」は、その後も、
- 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」

「なんとなくなんとなく」 - 1967年3月1日「太陽の翼」

「太陽の翼」 - 1967年7月15日「風が泣いている」

「風が泣いている」
などがヒットするほか、
1967年5月には、「夕日が泣いている」で映画初出演を果たすと、
1967年8月には、「ザ・スパイダースのゴー・ゴー・向こう見ず作戦」で映画初主演も果たすなど、
人気は頂点を極めたのでした。
田邊昭知は31歳の時に「ザ・スパイダース」を脱退(現役引退)し社長業に専念していた
しかし、1967年3月15日、ライバルグループの「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」がシングル「ブルー・シャトウ」をリリースすると、150万枚を超える大ヒットを記録するほか、

「ブルー・シャトウ」
同年夏頃には、「ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」など若手グループが台頭し始め、一躍、グループサウンズブームが巻き起こると、「ザ・スパイダーズ」の人気も次第に下火になっていったそうで、
1969年夏頃には、観客数の落ち込みが目立つようになると、個々のメンバーの人気が高かったことから、堺正章さんと井上順さんはテレビドラマやバラエティ番組の司会、井上堯之さんとかまやつひろしさんはミュージシャン、大野克夫さんは作曲家として、それぞれ、別の分野で才能を発揮するようになっていき、
特に、堺正章さんと井上順さんは、多忙を極め、「ザ・スパイダース」は、この2人を除く、5人での活動が多くなっていったそうで、
そんな中、1970年5月1日には、田邊昭知さんも、自身が経営する「スパイダクション」でのマネージメント業務に専念するため、現役引退を発表したのでした。
ちなみに、田邊昭知さんは、引退会見で、
おかげさまで「ザ・スパイダース」はグループとして成長しました。その後、マチャアキ(堺正章さん)と順之(=井上順之・・・井上順さんの当時の芸名)のドラマ出演も成功を収めています。
僕はこうしたメンバーのキャリアをさらに大きく変化に富んだものとして育てていきたいのです。引退して、社長業に専念することはグループのためにもいいことだと、決心を固めたのです
と、語っています。
田邊昭知が32歳の時に「ザ・スパイダース」は解散
その後、「ザ・スパイダース」は、1970年9月には、シングル「エレクトリックおばあちゃん」をリリースするも、売上はさっぱりで、

「エレクトリックおばあちゃん」
そのうえ、中心メンバーだったかまやつひろしさんが脱退すると、
ついに、1971年1月、「ザ・スパイダーズ」は、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」を最後に解散することとなったのでした。
「ザ・スパイダース」の本当の解散理由は?
ちなみに、気になる解散理由ですが、単純に「エレクトリックおばあちゃん」の売上の問題だけではなかったようです。
実は、田邊昭知さんは、「ザ・スパイダース」が人気絶頂の頃から、とても厳しいリーダーで、毎日、ミィーティングをし、
いいか、この芸能界で生き残るためには何が必要か分かるか?
などと、説教するほか、
灰皿を投げつけることも珍しくなく、
そのうえ、「ファンの女の子には絶対に手を出さない」ことを厳命し、ツアー先では、ホテルから外出禁止命令を出すほどだったそうで、
メンバーたちも、まだ駆け出しで無我夢中だった頃には、そんな締付けも我慢できたものの、人気絶頂を迎え、やがて人気が落ち着き、それぞれ、個人の道を歩き始めようとしていたこの頃には、反発するようになっていたといいます。
また、メンバーたちは、「ザ・スパイダース」の給料が、「渡辺プロダクション」所属の「ザ・タイガース」と比べて、(仕事量の差以上に)大きな差があったことが分かると、疑心暗鬼とそれぞれの方向性の違いが重なり、最終的には、空中分解してしまっていたそうで、グループとして保つことができなかったようです。
また、かまやつひろしさんは、
「夕陽が泣いている」でスパイダースは終わったんです。世間ではスパイダースの始まりであり、GSブームの始まりだったけど、大好きな海外アーティストの曲を必死でコピーして来た自分の中では、ひとつの火が消えたんですね。
売れて大衆的になったことで、それまで付いてた洋楽ファンの男子たちは、ゴールデン・カップス等、よりマニアックなバンドへ流れていったし、新たに付いたミーハー・ファンたちは、その後タイガースが出てくると、みんなそっちへ流れて行っちゃった。
と、語っており、
「ザ・スパイダース」は、「夕陽が泣いている」の大ヒットで、一躍トップスターとなったものの、この成功で、かねてより、「ザ・スパイダース」を支持していたコアな音楽ファンは離れていったようで、
自分たちの音楽を追求することと、セールス的な結果を残すことの両立が、いかに難しいかが分かりますね。
風が泣いている/ザ・スパイダース
「田邊昭知の若い頃(スパイダクション)から現在(田辺エージェンシー)までの経歴は?」に続く
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