1971年1月、32歳の時、「ザ・スパイダース」の解散に伴い、事務所「スパイダクション」を解散すると、その後、「東京音楽出版」の社長を経て、
1973年4月4日、34歳の時には、「田辺エージェンシー」を設立し、タモリさん、研ナオコさん、永作博美さん、堺雅人さんらを次々とブレイクさせた、田邊昭知(たなべ しょうち)さん。
今回は、田邊昭知さんの若い頃(「スパイダクション」解散以降)から現在(「田辺エージェンシー」会長)までの経歴をご紹介します。

「【画像】田邊昭知の若い頃はザ・スパイダース!ヒット曲は?解散理由は?」からの続き
田邊昭知は32歳の時に「スパイダクション」を解散していた
田邊昭知さんは、1966年5月、「堀プロダクション」内に「ザ・スパイダース」のマネジメント会社「スパイダクション」を設立していたのですが、
1971年1月(田邊昭知さん32歳)に「ザ・スパイダース」が解散すると、それに伴い、「スパイダクション」も解散しています。
というのも、本来ならば、グループの解散と共にプロダクションまで畳むことはないのですが、メンバーたちの自分に対する不服へのけじめだったといいます。
また、田邊昭知さんは、メンバーたちが路頭に迷わないように、「ブルー・コメッツ」のマネージャーで旧知の仲だった川村龍夫さんらに声をかけ、メンバーを移籍させたといいます。
その結果、「ザ・スパイダース」のメンバーだった井上堯之さんと大野克夫さんは、元「ザ・テンプターズ」の萩原健一さんと、元「ザ・タイガース」の沢田研二さん、岸部一徳さんらと共に、1971年、「PYG」を結成しています。
グループ・サウンズの中で頂点を極めるも、バンド内では数々のトラブルがあった「ザ・タイガース」ですが、ついに、1971年、解散となると、岸部一徳(きしべ いっとく)さんは、かねてより構想をねっていた新たなバンドをスタートさ …
田邊昭知は32歳~34歳の時、「東京音楽出版」の社長を務めていた
そんな中、田邊昭知さんは、自分のことは考えていなかったそうですが、
芸能界に入ってからずっと兄のように慕っていた堀威夫さんが、
お前、東京音楽出版に来い
と、声をかけてくれたといいます。
(「東京音楽出版」は「ホリプロ」が100%出資した会社だったそうです)
ただ、田邊昭知さんは、印税や著作権に関することに興味がなく、数字にも弱かったため、断ったそうですが、
(それを分かっていたうえで)堀威夫さんには、
おまえ、一度売れたんだよ。スパーダースとスパイダクションで。それでこっちにもメリットがある
と、言われたそうで、
田邊昭知さんは、「東京音楽出版」の社長を務めることになったのだそうです。
田邊昭知は34歳の時に「田辺エージェンシー」を設立
こうして、田邊昭知さんは、「東京音楽出版」の雇われ社長を2年務めたそうですが、その後、1973年4月4日、34歳の時には、(「ホリプロ」から独立し)「田辺エージェンシー」を設立したそうで、
田邊昭知さんは、書籍「芸能界誕生」のインタビューで、
おれはね、芸能界がどうしようもなく汚い、嫌なところだったら、こんな仕事は始めなかったよ
音楽をやっている者が人間を拒否したらね、なんにも残らないんだ。おれはね、たとえ、売れているタレントがひとりもいないプロダクションのオヤジになっても、あそこには田邊がいるからって、他人に安心感を与えられるような社長になりたいんだ
と、語っています。
ちなみに、田邊昭知さんが「田辺エージェンシー」設立時、たった一人、「ブルー・コメッツ」のマネージャーで旧知の仲だった川村龍夫さんが参加してくれたといいます。
(川村龍夫さんは、「田辺エージェンシー」の副社長に就任しているのですが、やがて、芸能事務所「ケイダッシュ」を設立しています)
田邊昭知は34歳頃に研ナオコを発掘しブレイクさせていた
そんな田邊昭知さんは、1972年頃には、まだ無名だった研ナオコさんを発掘すると、
まずは、1973年には、テレビドラマ「時間ですよ」でタレントとして人気を博し、
1975年には、本業の歌手としても、9枚目のシングル「愚図」(1975年9月10日リリース)が大ヒットするなど、全国的にブレイクを果たし、
その後も、その独特のキャラクターでお茶の間の人気を博しています。
1971年4月、17歳の時、「大都会のやさぐれ女」で歌手デビューするも、鳴かず飛ばずで、日本全国を営業周りしていたという、研ナオコ(けん なおこ)さんですが、 元・「ザ・スパイダース」のリーダーで「田辺エージェンシー」の社長・田邊昭知さんにスカウトされると、たちまち、女優やタレント活動で人気を博したといいます。
ちなみに、研ナオコさんも、田邊昭知さんへの思いについて、2023年、「日刊ゲンダイ」の連載「研ナオコの「スッピンでしゃべります」」 で、
さて、この連載も今回で60回目、めでたく最終回を迎えることができました。これもひとえに読者の皆さまのおかげと感謝している次第でございます。
で、最終回にふさわしい方、といえばこの人しかいません。田邊昭知さんです。元スパイダースのドラムス担当のリーダーにして田辺エージェンシーの社長。アタシがここまでやれたのも、この方のおかげと言っても過言ではありません。
「愚図」を歌うとき、歌い方から衣装まですべて自分で考えたんです。これも田邊流プロデュースだと思いますね。この子は野放しにしておいた方が伸びるって思ったんでしょう。野放しにされて53年(笑)。というわけで感謝感謝です。
と、綴っています。
田邊昭知は36歳頃にタモリの異才を見抜き個性を殺さずに売り出していた
また、田邊昭知さんは、1975年には、当時、福岡から上京してきた素人同然のタモリさんの異才を見抜き、その個性を一切殺さずに売り出すと、
タモリさんは、1976年4月に「空飛ぶモンティ・パイソン」でテレビデビューを果たした後、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」内のコーナー「タモリのなんでも講座」で、「4ヶ国語麻雀」「中洲産業大学のタモリ教授」「タモリ神父」「イグアナのモノマネ」などの”密室芸”を披露し、人気を博しています。
1973年4月4日、34歳の時に、「田辺エージェンシー」を設立すると、1990年代頃からは、芸能界の重鎮の一人として数えられ、”芸能界のドン”とも称されている、田邊昭知(たなべ しょうち)さん。 …
田邊昭知は44歳頃には「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」など独創的な番組制作にも携わっていた
こうして、「田辺エージェンシー」は、1976年頃には、タモリさん、研ナオコさん、堺正章さん(「ザ・スパイダース」の元メンバー)などで、事務所の基盤が強固となると、
1980年代には、単にタレントを派遣するだけではなく、番組制作にも進出し、「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」など、独創的な番組を次々と世に送り出しています。
田邊昭知は50代の時、永作博美、堺雅人などをブレイクさせていた
その後も、田邊昭知さんは、1990年代には、永作博美さん、堺雅人さんなど次々とブレイクさせ、さらに事務所の地位を不動のものにすると、
1991年~1999年には、日本音楽事業者協会(音事協)の会長を務めるほか、自社だけではなく、タレントの権利保護や業界のルール作りなど、業界全体の地位向上にも尽力しており、
やがては、芸能界の重鎮の一人として数えられるようになり、”芸能界のドン”と呼ばれるようになっています。
田邊昭知は78歳の時に”SMAP解散騒動”の仲裁役を務めていた
そんな田邊昭知さんは、2016年(田邊昭知さん78歳)に発生した「SMAP解散騒動」では、
独立を目指した、香取慎吾さん、草彅剛さん、稲垣吾郎さんらと「ジャニーズ事務所」の間に入って、実質的に仲裁役を務め、
事務所の枠組みを超えた調整役として、事態の収拾に尽力しています。
田邊昭知は82歳の時に女優発掘・育成プロジェクト「私が女優になる日_」を秋元康と共に立ち上げていた
さらに、田邊昭知さんは、2021年、82歳の時には、秋元康さんとタッグを組み、TBSの女優発掘・育成プロジェクト「私が女優になる日_」を立ち上げると、飯沼愛さん、幸澤沙良さんを発掘するなど、常に新しい才能を探し続けています。
ちなみに、「私が女優になる日_」は、オーディションを勝ち抜いたグランプリ受賞者が、その人のために書き下ろされた脚本でドラマ主演デビューできるという企画で、
2020年のseason1でグランプリを受賞した飯沼愛さんは、「この初恋はフィクションです」の主演、2022年のseason2でグランプリを受賞した幸澤沙良さんは、「差出人は、誰ですか?」の主演で、テレビドラマデビューを果たしています。
田邊昭知の現在は?「田辺エージェンシー」の社長を退任して会長に就任
そんな田邊昭知さんも、2024年2月20日(田邊昭知さん85歳)には、長年務めた「田辺エージェンシー」の代表取締役社長を菅原潤一氏に譲って、代表取締役会長に就任し、現場の指揮を後進に託しているのですが、
まだまだ、事務所の精神的支柱として、今もなお日本のエンターテインメント界に多大な影響力を持ち続けています。
「田邊昭知は無名時代のタモリの才能を見抜きマネージメントを申し出ていた!」に続く
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1973年4月4日、34歳の時に、「田辺エージェンシー」を設立すると、1990年代頃からは、芸能界の重鎮の一人として数えられ、”芸能界のドン”とも称されている、田邊昭知(たなべ しょうち)さん。 …










