1973年4月4日、34歳の時に、「田辺エージェンシー」を設立すると、1990年代頃からは、芸能界の重鎮の一人として数えられ、”芸能界のドン”とも称されている、田邊昭知(たなべ しょうち)さん。

そんな田邊昭知さんは、1970年代、まだ無名だったタモリさんの才能をいち早く見出して、マネージメントを申し出ると、独特のキャラクターを活かした路線でタモリさんを売り出していたといいます。

田邊昭知

「田邊昭知の若い頃(スパイダクション)から現在(田辺エージェンシー)までの経歴は?」からの続き

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田邊昭知はまだ無名だったタモリの才能を見抜きマネージメントを申し出ていた

田邊昭知さんは、1975年頃、赤塚不二夫さんや山下洋輔さんら共通の知人を介して、赤塚不二夫さんの家に居候をしながらライブハウスなどで”密室芸”と呼ばれる独特のパフォーマンスを披露していたタモリさんと知り合ったそうですが、

(1975年頃、タモリさんは、福岡でサラリーマンをしながら、仲間内で”密室芸”を披露していたのですが、ひょんなことがきっかけで、山下洋輔さんらジャズミュージシャンたちと交流するようになると、タモリさんの才能に惚れ込んだ山下洋輔さんたちからカンパを受け、東京に来ていました)

すぐに、タモリさんの唯一無二の才能を見抜き、マネージメントを担当することを申し出ていたといいます。

田邊昭知はタモリの独特のキャラを活かしていた

そして、その際には、タモリさんの独特のキャラを活かすため、無理に型にはめないというプロデュース方針に決め、

タモリさんには、

お前は何も変えなくていい。今のままで面白いんだから

と言って、マネージメント契約を結んだそうで、

タモリさんは、1976年4月、「空飛ぶモンティ・パイソン」でテレビデビューをすると、同年、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」内のコーナー「タモリのなんでも講座」に出演し、「4ヶ国語麻雀」「中洲産業大学のタモリ教授」「タモリ神父」「イグアナのモノマネ」などの”密室芸”で人気を博したのでした。

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田邊昭知はタモリの知的なシュールさを活かす為あえて深夜番組に出演させていた

また、田邊昭知さんは、1982年には、深夜番組「タモリ倶楽部」をスタートさせているのですが、タモリさんの知的なシュールさを活かすため、あえてゴールデンタイムではなく、深夜番組でタモリさんの個性が際立つ番組を開拓していたそうで、

プロデューサーの菅原正豊さん(現・ハウフルス会長)には、

菅原、これから時代は深夜だ

タモリで深夜をやりたいんだ

と、言っていたといいます。

(菅原正豊さんは、これを「お前にタモリを預けるから、深夜を開拓しろ」という意味だと理解したそうです)

すると、当初は、「素人番組」「省エネ番組」「力抜いてる」「面白くない」と、散々叩かれ、番組は常に赤字だったそうですが、

菅原正豊さんは、

タモリがいるとバカバカしい企画も不思議と哲学的に見えてくる。だから最初から最後まで、「一生懸命いいかげんなもの」をつくり続けることができたんです。

と、語っており、

「タモリ倶楽部」は、2023年3月31日に放送終了するまで、実に40年以上も続く長寿番組となったのでした。

ちなみに、同年7月6日、「タモリ倶楽部」制作チームが「第39回ATP賞テレビグランプリ」(全日本テレビ番組製作社連盟主催)の特別賞を受賞し、都内のホテルで受賞式が行われた際には、

タモリさんは、

40年前にこの番組が始まるときに、うちの社長に呼ばれて言われた言葉が、今となってはもう話していいと思うんですけども、

『今回やる“タモリ倶楽部”という番組は、今の番組は全て密度を濃くして、編集に編集を重ねて番組を作り出そうとしてるけども、全く逆のスカスカの番組をやれ』

と言われたんです。

その時はびっくりしました。スカスカの番組ってなんだろう。密度の濃いの反対ということは、間延びしてもいい、爆笑を取らなくてもいい、間違ってもいいと勝手に考えてずっとやってきて、40年が経ってしまいました。

いまだに“スカスカ”という意味が分かんないですけど、今で言う“緩い”とか“脱力”とかに近いのかなと思ってます

と、コメントしています。

「田邊昭知は夏目三久をスキャンダルから復活させ有吉弘行との結婚まで導いていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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