1957年、18歳の時、堀威夫さんに誘われ、「堀威夫とスイング・ウエスト」を立ち上げ、ドラマーとして活動していたという、田邊昭知(たなべ しょうち)さんですが、

1960年秋には、「堀威夫とスイング・ウエスト」が所属していた「東洋企画」から突然解雇された堀威夫さんの呼びかけに応える形で、「堀プロダクション(現・ホリプロ)」の設立に参加したといいます。

今回は、そんな田邊昭知さんの若い頃(「堀威夫とスイング・ウエスト」時代~ホリプロ設立)を時系列でご紹介します。

田邊昭知

「田邊昭知の生い立ちは?不良少年も15歳からバンドの雑用係!16歳でドラム!」からの続き

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田邊昭知は16歳の時に鳥尾敬孝に誘われ平尾昌晃らと「オールスターズ・ワゴン」を立ち上げていた

堀威夫さんに誘われ、堀威夫さんが結成した「キャクタス・ワゴン」のドラム担当となると、一からドラムの猛練習をして、ドラムの腕を上げていったという田邊昭知さんですが、

田邊昭知さんが「キャクタス・ワゴン」に入って半年が過ぎた頃には、リーダーの堀威夫さんが、「キャクタス・ワゴン」のメンバーの了承を得て、「ワゴン・マスターズ」に戻ってしまったそうで、

(堀威夫さんは、「ワゴン・マスターズ」から主要メンバーだった鳥尾敬孝さんが脱退したことで、復帰要請を受けたのだそうです)

そんな中、1955年7月、田邊昭知さん(16歳)は、鳥尾敬孝さんから誘われ、「キャクタス・ワゴン」を脱退して、鳥尾敬孝さん、平尾昌晃さんらと共に、バンド「オールスターズ・ワゴン」を結成して、ドラマーとして活動したそうです。

田邊昭知は18歳の時に堀威夫に誘われ「堀威夫とスイング・ウエスト」を立ち上げていた

ただ、1957年3月31日には(田邊昭知さん18歳)、再び、「ワゴン・マスターズ」から脱退した堀威夫さんに誘われ、「オールスターズ・ワゴン」を脱退して、堀威夫さんらと共に、バンド「堀威夫とスイング・ウエスト」を立ち上げると、

(「堀威夫とスイング・ウエスト」は、ドラムのほかにフィドルが2本入った9人の編成で、当時では斬新な編成だったそうです)

「堀威夫とスイング・ウエスト」は、同年(1957年)、「渡辺プロダクション」と契約し、「ヤング・ラブ」という曲でレコードデビューが決定。

したはずだったそうですが・・・

お蔵入りとなってしまったそうで、コンサート出演やテレビ出演も相次いでキャンセルとなってしまったのだそうです。

というのも、古巣「ワゴン・マスターズ」のマネージャーから妨害があったというのです。

田邊昭知は19歳の時、「堀威夫とスイング・ウエスト」が「ミュージック・ライフ」誌の人気投票で1位に輝いていた

これに対し、田邊昭知さんたちは、闘志を燃やして演奏に力を入れたそうで、

その甲斐あってか、年末に発表された「ミュージック・ライフ」誌の人気投票では、「堀威夫とスイング・ウエスト」は、「ワゴン・マスターズ」らライバルを抑え、1位に輝いたのだそうです。

田邊昭知は21~22歳頃、堀威夫が「東洋企画」の役員を突然解雇されたことを知らされていた

そんな中、1960年秋のある日の夕方4時頃、世田谷の自宅にいた田邊昭知さんのもとに、堀威夫さんから電話がかかってきたといいます。

ただ、田邊昭知さんは、堀威夫さんの言っていることがよく分からなかったことから、堀威夫さんのもとに向かうと、

堀威夫さんは、約半年前の1960年4月、「スイング・ウエスト」が所属していた「東洋企画」の役員として裏方に専念するため、現役を引退するも、社内の経営権争い(クーデター)に巻き込まれ、突然、解雇されていたことを聞いたそうで、

田邊昭知さんは、その時のことを、

堀さんは突然解雇だったから。忘れもしない夕方4時かそこらぐらいに、堀さんがゴルフか何かの用の帰りで。東洋企画は泰明小学校の前の路地を入っていったところの2階に事務所があったのよ。

そこから電話がかかってきた。泰明小学校の前じゃしょうがねえから、帝国ホテルのロビーだか建物の外かなんかで会ったんだ。

と、語っています。

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田邊昭知は22歳の時に「堀プロダクション(現・ホリプロ)」の設立に参加していた

そこで、田邊昭知さんと堀威夫さんは、1960年秋の終わり頃(田邊昭知さん22歳)、電話が設置されていた守屋浩さんのアパートの部屋に集まると、プロダクション設立に向け、急ピッチで準備を始め、

(守屋浩さんのアパートが事務所代わりとなったそうです)

田邊昭知さん、堀威夫さん、守屋浩さんの3人のほか、経理担当と総務担当を加えた5人が発起人となり、「堀プロダクション(現・ホリプロ)」を設立したそうですが、

(田邊昭知さんは、1961年2月に「スイング・ウエスト」を脱退しています)

堀威夫さんが育てた、佐川満男さん、ささきいさおさん、盟友だと思っていた相澤秀貞さん、堀威夫さんがリーダーの座を譲った大森俊雄さんほか、「東洋企画」に所属していた多くのタレントやスタッフは「東洋企画」に残ったそうで、堀威夫さんはショックで打ちひしがれたといいます。

ただ、「東洋企画」の大スターだった守屋浩さんがついてきてくれ、田邊昭知さんが「東洋企画」を飛び出す形で堀威夫さんのもとに駆けつけてくれたことで救われたそうで、

堀威夫さんは、

田邊は男気がありすぎるタイプなんだね。全部俺が育てたやつだと思っていたのが、後ろを向いたらついてこないのがほとんどだった。だけど、田邊は次の日から辞めてついてきちゃった。

歌い手なら一人で仕事ができるけど、太鼓だけじゃどうしようもないのに。それで、「ザ・スパイダース」というグループをつくることになったんだけどね。

と、語っています。

また、田邊昭知さんは、その時のことを、「芸能界誕生」という本のインタビューで、

あっち(「東洋企画」)は信用できなかったから。俺は堀威夫に「おまえ、太鼓叩け」って言われてすべてが始まったわけだから。やっぱりそれはもうしょうがないよね。ずっとその関係性は変わらない。今でもね。

と、語っています。

「田邊昭知が「ザ・スパイダース」の7人のメンバーを集めた経緯は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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