1960年、シングル「二人の並木径」でレコードデビューすると、同年には、4枚目のシングル「無情の夢」が大ヒットを記録し、その後も、「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」など、ヒットを連発した、佐川満男(さがわ みつお)さん。
そんな佐川満男さんは、高校中退後、勧められるがまま絵を描き、「関西二紀会」に出品すると、最年少で入選したそうですが、
同時期に、宴会で促されるまま、でたらめな英語でエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を歌うと、これまたウケたそうで、これをきっかけにギターとカントリーソングの練習を独学で始めたといいます。
今回は、佐川満男さんの幼少期(生い立ち)から上京するまでをご紹介します。
佐川満男のプロフィール
佐川満男さんは、1939年11月9日生まれ、
兵庫県神戸市垂水区塩屋町の出身、
身長168センチ、
血液型はO型、
学歴は、
神戸市立塩屋小学校
⇒神戸市立鷹取中学校
⇒神戸市立須磨高等学校中退
趣味は、絵画の制作、料理、登山、
ちなみに、「佐川満男」は本名ですが、デビュー当時の1960年~1968年は、「佐川ミツオ」名義で活動しています。
また、佐川満男さんのお父さんは、佐川商店代表の佐川与一氏、義兄(姉の夫)は栗田工業社長の佐川明氏、「パリ人肉事件」の佐川一政氏は甥(姉の子供)です。
佐川満男の幼少期は放任主義の家庭で育っていた
佐川満男さんは、貿易商だったお父さんのもと、神戸市垂水区塩屋で、4人きょうだいの末っ子として誕生すると、放任主義の家庭で育ったそうです。
(実家の洋館があった神戸市垂水区塩屋は、外国人の住宅や別荘がたくさんあったことから、戦争中も空襲に遭わず、2018年時点で、実家は築80年以上健在だったといいます)
佐川満男は高校中退後、「関西二紀会(絵画)」に最年少で入選していた
そんな佐川満男さんは、小学校、中学校時代は楽しかったそうですが、高校時代は、思春期だったせいか、先生が嫌いだったのか、自分の存在が分からなくなり、1年で中退してしまったそうです。
そんな中、国道2号線をブラブラ歩いていると、小学生の時に通っていた絵画教室で知り合った、画家の中西勝さんと、偶然、会い、
なんや、学校やめたんか。ほなら、絵を描け。家にがらくたあるやろ。それ描けばええ。展覧会に出せ。1週間後や
と、言われたそうで、
油絵の道具が家にあったことから、その言葉通り、バケツや空き缶を抽象画にして描き、「廃品」というタイトルで関西二紀会に出品すると、最年少で入選したのだそうです。
(佐川満男さんは、初めて認められて嬉しかったそうです)
佐川満男は高校中退後、ギターと歌(カントリーソング)の練習を始めていた
また、中西勝さんは、お酒が好きな人で、お酒を飲むとよく歌を歌ったそうですが、
ある時、歌った後、
次は佐川の番や。プレスリーがはやってるやろ、あれやれ
と、言われたことから、
言われるがままに佐川満男さんが、でたらめな英語で、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を歌うと、これが、周りの人達にウケたそうで、
これをきっかけに、佐川満男さんは、家にあった古いギターでギターを始め、レコードを手回しの蓄音機で流してカントリーソングを覚えたのだそうです。
(歌詞カードがなかったことから、聴き取った英語をひらがなに置き換えて歌ったのだそうです)
佐川満男は10代の頃ロカビリーバンドのボーカルとしてジャズ喫茶「白馬車」のオーディションに参加していた
そんな佐川満男さんは、絵を描くことよりも、ギターにのめり込み、やがて、神戸市の須磨界隈で活動していたロカビリーバンドに、「一緒にやろうと」と誘われてボーカルとして参加したそうで、
その後、新開地のジャズ喫茶「白馬車」のオーディションを受けると、バンドとしては落選するも、佐川満男さんだけマネージャーに呼ばれ、
君の歌はいいね。あした難波の銀馬車でオーディション受けろ
と、言われたのだそうです。
(当時、「銀馬車」は「ナンバ一番」と並ぶ、大阪・難波の有名なジャズ喫茶だったそうです)
佐川満男が10代の頃はジャズ喫茶「銀馬車」で「クレイジー・バブルス」のボーカルとして人気を博していた
そこで、佐川満男さんが「銀馬車」のオーディションを受けると即合格し、翌日から、バンド「クレイジー・バブルス」のボーカルとしてステージに立ったそうですが、
「銀馬車」で知り合った内田裕也さんとツインボーカルでステージに立ったところ、バンドは大きな人気を博したのだそうです。
(内田裕也さんは、エルヴィス・プレスリーの激しい曲を歌っていたそうで、甘いラブソングを歌う佐川満男さんとは、タイプが違っていたそうですが、気が合ったそうです)
佐川満男さん(左)と内田裕也さん(右)。
佐川満男はオーディションに来た中村泰士を不合格にしていた
ちなみに、佐川満男さんは、この頃、昼は神戸、夜は難波で歌う多忙な日々を送っていたことから、さすがに疲れてしまい、もう一人、ボーカルを入れることになり、オーディションを実施すると、
ヤクザのような格好をした人が来て「ダイアナ」を歌うも、この時は、
下手やのぉ
との理由で、不合格にしたそうですが、
この人が、後に作詞家・作曲家として佐川満男さんの人生に大きな影響を与える、中村泰士さんだったといいます。
佐川満男は10代~20代の頃、「ザ・スウィング・ウエスト」の堀威夫に誘われて上京していた
そんな中、佐川満男さんは、「銀馬車」で「東西ロカビリー大会」が開催された際、東京から来た「ザ・スウィング・ウエスト」のギターでリーダーの堀威夫さんと知り合い、
東京に来い
と、誘われたそうで、
この誘いに乗り、上京すると、麻布の風呂なし4畳半の家賃4500円のボロアパートに、バンド仲間3人と一緒に住み、東京での生活をスタートさせたのだそうです。
(堀威夫さんは、後のホリプロの会長です。また、「ザ・スウィング・ウエスト」のドラムの田辺昭知さんは後の田辺エージェンシーの社長です)
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