6歳の頃から進駐軍のキャンプで歌い始め、1958年、11歳の時、「クワイ河マーチ」でレコードデビューすると、1962年、15歳の時には、中尾ミエさん、園まりさんと「スパーク三人娘」としてアイドル活動を開始し、

1967年、20歳の時には、ソロで歌った「小指の想い出」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、以降も、「恋のしずく」「星を見ないで」「朝のくちづけ」「知らなかったの」など、次々とヒットを連発した、伊東ゆかり(いとう ゆかり)さん。

今回は、そんな伊東ゆかりさんの若い頃(歌手デビュー)からのヒット曲や経歴を時系列でご紹介します。

伊東ゆかり

「伊東ゆかりの生い立ちは?幼少期から進駐軍で歌手!中学で三人娘でブレイク!」からの続き

Sponsored Link

伊東ゆかりは11歳の時に「クワイ河マーチ」でレコードデビュー

6歳の頃から進駐軍のキャンプのステージで歌を歌うようになったという伊東ゆかりさんは、1958年、11歳の時には、渡辺プロダクションに所属し、社長の家に下宿しながら芸能活動を開始すると、「シャボン玉ホリデー」などのテレビ番組に出演していたそうで、

同年6月には、「クワイ河マーチ」(映画「戦場にかける橋」のカバー)でレコードデビューを果たしています。

「クワイ河マーチ」
「クワイ河マーチ」

ただ、伊東ゆかりさんが6歳から進駐軍のキャンプで歌うようになったのは、金銭的な事情によるものだったそうで、歌の仕事は早く辞めたいとばかり思っていたそうです。

(伊東ゆかりさんのお父さんはミュージシャンだったそうですが、宵越しのお金は持たず、仕事でもらったギャラをすべて打ち上げで使ってしまうような人だったそうで、伊東ゆかりさんも働かないと家計が回らず、放課後も友達と遊ぶことができず、仕事に行かなければならなかったため、歌うことは少しも楽しくなかったそうです)

伊東ゆかりは15歳の時に「スパーク三人娘」として中尾ミエと園まりと共に活動を開始

さておき、伊東ゆかりさんは、1960年代前半までは海外ポップスの日本語カバーを歌っていたそうですが、日本の音楽業界もジャズからロカビリーに移行するほか、テレビや映画に出演しながら人気を獲得していくという流れに変わっていったそうで、

伊東ゆかりさんも、1962年には、中尾ミエさん、園まりさんと共に、「スパーク三人娘」として活動するようになると、

「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」「歌え!一億」など人気番組に出演し、全国的な知名度を高めたのでした。

(「スパークショー」というバラエティ番組で3人でアシスタントとして出演していたところ、「スパーク三人娘」と呼ばれるようになったそうです)

伊東ゆかりは19歳の時に「小指の想い出」が150万枚を売り上げる大ヒット

そんな中、伊東ゆかりさんは、1967年、19歳の時、「小指の想い出」をリリースすると、150万枚を売り上げる大ヒットを記録し、

1967年末の「第9回日本レコード大賞歌唱賞」を受賞するほか、同年末の「第18回NHK紅白歌合戦」にも出場したのでした。

「小指の想い出」
「小指の想い出」

伊東ゆかりが20歳~22歳の時には「恋のしずく」「星を見ないで」「朝のくちづけ」「知らなかったの」などヒットを連発していた

その後も、伊東ゆかりさんは、

など、立て続けにヒットを連発すると、

1969年には、映画「愛するあした」で主演を務めるほか、同年の大晦日には、「第20回NHK紅白歌合戦」で紅組司会を務めるなど、各方面から引っ張りだことなったのでした。

伊東ゆかりは24歳の時に「誰も知らない」が2年ぶりにTOP10入りするヒットを記録

そして、1970年には、「渡辺プロダクション」から独立してレコード会社も日本コロムビアに移籍すると、当初は、レコードの売上はどれもパッとしなかったのですが、

1971年10月25日にリリースした「誰も知らない」が、オリコンチャート週間最高9位にランクインし、「知らなかったの」(1969年)以来、約2年ぶりにTOP10入りするヒットを記録しています。

「誰も知らない」
「誰も知らない」

ちなみに、この「誰も知らない」は、作詞・岩谷時子さん、作曲・筒美京平さんなのですが、元・ベース奏者でマネージャーを務めていた伊東ゆかりさんのお父さんが、日音の村上司さんに、

ぜひとも筒美京平作品を歌わせてほしい。

と、依頼したことで実現したものだったそうで、

当初、伊東ゆかりさんは、

リズムを強調したアップテンポの曲は、自分に合わないのでは…。

と、歌うことをためらったそうですが、

村上司さんに、

マイナーなメロディーをアップビートに乗せた曲をロングドレスで歌うのがイメージの一新につながる。

と、説得され、

伊東ゆかりさんもこれに納得したのだそうです。

伊東ゆかりは20代後半は人気が低迷していた

ただ、その後は、大手プロダクションの後ろ盾を失った厳しさに加え、「新三人娘(小柳ルミ子さん、南沙織さん、天地真理さん)」「花の中三トリオ(森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さん)」などの後輩歌手が台頭してきたほか、

プライベートでは、結婚・出産・離婚をしたことなどで、人気が低迷してしまいます。

伊東ゆかりが30歳~34歳の時には音楽番組「サウンド・イン”S”」でメイン司会者を務め”大人の歌手”として再評価されていた

それでも、伊東ゆかりさんは、1977年~1981年には、音楽番組「サウンド・イン”S”」でメイン司会者を務めると、

この番組は、(伊東ゆかりさんが得意とする)洋楽を中心とした構成となっており、時々、自らもゲストとデュエットをしたり、エンディングではスタンダード・ナンバーを歌い上げるなど、抜群の歌唱力を披露し、”大人の歌手”として再評価されるようになったのでした。

Sponsored Link

伊東ゆかりのシングル一覧

それでは、ここで、伊東ゆかりさんの主なシングルをご紹介しましょう。

  • 1958年「クワイ河マーチ」
  • 1959年「パパの日記」
  • 1961年「ポケット・トランジスター」
  • 1962年「ロコモーション」
    「ヴァケイション/ロコモーション」
  • 1963年「あたしのベビー」
  • 1964年「歌をおしえて」
    「歌をおしえて」
  • 1965年「恋する瞳」
  • 1966年「マリソルの初恋」
  • 1967年「あの人の足音」
    あの人の足音
  • 1968年「朝のくちづけ」
    朝のくちづけ
  • 1969年「知らなかったの」
    「知らなかったの」
  • 1970年「瞳の中から」
    瞳の中から
  • 1971年「信頼」
  • 1972年「彼」
  • 1973年「わかれの詩」
  • 1974年「季節風」
  • 1975年「わたし女ですもの」
  • 1976年「わかれ雪」
  • 1977年「かわいた女に雨が降る」
  • 1978年「あなたの隣りに」
  • 1979年「あなたしか見えない」
  • 1980年「もう一度」
  • 1981年「強がり」
  • 1984年「ふぁど」
  • 1985年「1990年」
  • 1988年「誘われて」
  • 1989年「セレナーデ」
  • 1991年「もう誰も愛さない」
  • 1992年「あなたのすべてを」
  • 1994年「明日、めぐり逢い」
  • 1997年「愛はいりませんか」

ほか、洋楽のカバーを中心に、数多くのシングルをリリースしています。

「伊東ゆかりの元夫・佐川満男との馴れ初めは?離婚理由は?再婚は?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link