1962年、18歳の時、「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビューし、同年、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと共に「スパーク3人娘」としてアイドル活動を開始すると、

1964年には、ソロで歌った「何も云わないで」が大ヒットし、1966年リリースの「逢いたくて逢いたくて」は累計売上70万枚となる大ヒットとなった、園まり(その まり)さん。

今回は、そんな園まりさんの、若い頃(歌手デビュー)からのヒット曲を時系列でご紹介します。

園まり

「園まりの生い立ちは?幼少期はケガで肘が曲がり手術!童謡歌手としてデビューしていた!」からの続き

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園まりは18歳の時に「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビュー

園まりさんは、1961年4月、渡辺プロダクションに入社すると、翌年の1962年5月、18歳の時には、「鍛冶屋のルンバ」で本格的に歌手デビューを果たしています。

ただ、園まりさんは、その頃のことについて、

話だけ聞けば「シンデレラガール」。でも、踊りもお芝居も下積みがない私にとっては、荒波に突然ポーンと投げ出された感覚で、苦労の連続でした。歌も当時はポップス全盛で、童謡やクラシックで育った私はついていくだけで必死でしたね。

と、語っています。

園まりは18歳の時に、中尾ミエ、伊東ゆかりと共に「スパーク3人娘」として国民的アイドルとなっていた

それでも、その後、園まりさんは、同年、同じ渡辺プロダクションに所属していた、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと共に「スパーク3人娘」として売り出されると、

3人3️様の個性が面白いということで、あっという間に人気を博して、国民的アイドルとなったのでした。

(「スパーク3人娘」は正式なユニットではなかったそうですが、「シャボン玉ホリデー」をはじめとするレギュラー番組7本、映画出演と、寝る暇もなく3人で日本中を駆け回ったそうです)

スパーク3人娘
「スパーク3人娘」(左から)伊東ゆかりさん、中尾ミエさん、園まりさん。

園まりは20歳の時に「何も云わないで」が大ヒットを記録しソロ活動を開始していた

ちなみに、園まりさんは、3人での活動は楽しかったそうですが、途中から3人の個性が確立してきたことや、踊りながら歌うカバーポップスが苦手だったことから、やがて、一人で歌いたいと思うようになっていったといいます。

そんな中、園まりさんが、NHKの番組「きょうのうた」で「何も云わないで」という歌を披露すると、これがたちまち反響を呼び、急遽、レコーディングすることになったそうで、1964年10月、20歳の時、「何も云わないで」をリリースすると、大ヒットを記録。

このことがきっかけとなり、「スパーク3人娘」は解消され、園まりさんは、ソロ活動を始めることになったそうで、

園まりさんは、

『太陽はひとりぼっち』(アラン・ドロン主演映画)の日本語カバーのレコーディングをしていたとき。これは、ツイストとブルースを融合させたポップスでしたが、たまたまスタジオにきていた出前持ちのお兄さんが、

「この人は絶対歌謡曲だよ!」と言ったその一言がスタッフの耳に届き、宮川(泰)先生が『何も云わないで』をつくってくださいました。

と、語っています。

園まりは21歳の時にシングル「逢いたくて逢いたくて」が70万枚を超える大ヒット

こうして、ポップスが苦手だった園まりさんは、

これでポップスから解放される!

と、うれしく思ったそうで、

作曲家の宮川泰さんからマンツーマンの猛特訓を受け、ポップスから歌謡曲の歌い方に変えると、1966年1月にリリースしたシングル「逢いたくて逢いたくて」は、70万枚を売り上げる空前の大ヒットを記録。

「逢いたくて逢いたくて」
「逢いたくて逢いたくて」

また、同年6月には、同名タイトルの映画「逢いたくて逢いたくて」が日活で制作され、園まりさんもヒロインで出演するなど、さらなる大ブレイクを果たしたのでした。

ちなみに、園まりさんは、

『何も云わないで』がヒットして、その次が『逢いたくて逢いたくて』。一途な恋心を歌う曲なのに、最初は感情が込められなくて、先輩歌手から「もっと切ない表情をつくったほうがいい」と言われるぐらいでした。

ところが、共演したある俳優さんに片思いをしてしまい、自分の心情と曲が初めてオーバーラップしたんですね。歌いながら自然と目に涙が浮かぶほどになり、恋をする前よりヒットして自分でもびっくり。純粋で切ない気持ちがテレビを見ているみなさんの心に響いたのかもしれませんね。

と、語っています。

(園まりさんは、宮川泰さんから、1小節ごとに語るように囁(ささや)く感じで歌う歌唱指導を受けたそうで、この囁くように語りかける独特の歌い方は、後に、「園まり節」と呼ばれるようになりました)

園まりは22歳~23歳の時にシングル「夢は夜ひらく」「愛は惜しみなく」がヒット

そんな園まりさんは、その後も、

などのヒットを飛ばし、歌謡歌手としての地位を確立したのでした。

園まりは30代後半~40代に一時期芸能界から遠ざかっていた

ただ、園まりさんは、忙しい日々の中で、

私は何のために歌っているのだろう?

自分は会社にとって商品なのでは?

などと、虚しさに苛(さいな)まれるようになったそうで、

1980年代~1990年代(30代後半~40代の頃)の一時期は芸能界から遠ざかっていたといいます。

園まりは50歳の時に完全に芸能活動を休止していた

そして、その間には、真剣に結婚を考えたことがあったそうですが、

(幼い頃からお父さんやお母さんの言われるがままに、そのレールの上を走ってきたことから、「青春ってなんだろう?」と思い始めたのだそうです)

その頃は、一家の家計を担っていたことから、結局は仕事を選んだのだそうです。

ただ、テレビには戻る気持ちになれず、ステージだけをやりたいと思い、キャバレーやクラブを中心に活動していたそうで、1994年、50歳の時には、渡辺プロダクションを退社し、完全に芸能活動を休止したのだそうです。

園まりは57歳の時にNHK「あの歌この芸」に出演し芸能活動を再開

その後、園まりさんは、2001年、57歳の時、NHKの番組「あの歌この芸」に出演し芸能活動を再開しています。

園まりは80歳で死去

そんな園まりさんですが、2007年、63歳の時に、乳ガンに罹患すると、手術をして一旦は克服したそうですが、2019年にはガンが再発したそうで、闘病生活を続けるかたわら、歌手としての活動を続けていたといいます。

そして、2024年7月26日、80歳で、急性心不全のため東京都内の病院で他界されたのでした。

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園まりのシングル一覧

それでは、ここで、園まりさんの主なシングルをご紹介しましょう。

  • 1962年「鍛冶屋のルンバ」
  • 1963年「グッドバイ・ジョー」
    「グッドバイ・ジョー」
  • 1964年「夢の散歩道」
  • 1965年「あなたとなら」
  • 1966年「逢いたくて逢いたくて」
  • 1967年「愛は惜しみなく」
  • 1968年「好きなの 好きなの」
  • 1969年「おもいきり泣かせて」
    「おもいきり泣かせて」
  • 1970年「くちづけ」
  • 1971年「最後の一時間」
  • 1972年「旅情」
  • 1973年「恋する女のブルース」
  • 1974年「お帰りなさい」
  • 1976年「夢は夜ひらく」
    「夢は夜ひらく」
  • 1978年「舞酔坂」
  • 1979年「蛾」
  • 1980年「大阪の女」
  • 1981年「さかだち」
  • 2003年「アマンIIwith菅原洋一」
  • 2006年「2人はパートナー」
  • 2011年「もう一度逢いたくて 2011年」

ほか、数多くのシングルをリリースしています。

「園まりの夫は?結婚してた?渡哲也に片思いしていた!平尾昌晃とも?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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