美しい歌声と可憐なルックスで多くのファンを魅了し、昭和の歌謡界を代表する歌手として活躍した、園まり(その まり)さん。
そんな園まりさんは、幼い頃は、左肘を大ケガし、小学校入学後に手術を受けるまで曲がったままだったほか、お父さんが定職に就いていなかったため、お母さんが内職で家計を支えるなど貧しい家庭で育ったそうですが、
歌が上手だったことから、小学生の時、担任の先生に歌の道に進むことを勧められると、もともとオペラ歌手に憧れていたというお父さんに、1954年、10歳の時、安西愛子さん主宰のコーラスグループ「杉の子子ども会」に入団させられ、1956年、12歳の時には、「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてレコードデビューを果たしたといいます。
今回は、園まりさんの生い立ち(幼少期から18歳の時に「鍛冶屋のルンバ」で流行歌手としてレコードデビューするまで)をご紹介します。
園まりのプロフィール
園まりさんは、1944年4月12日生まれ、
横浜市保土ヶ谷の出身、
血液型はA型、
本名は、
薗部毬子(そのべ まりこ)、
学歴は、
東洋音楽学校高等部卒業、
趣味は散策、
ちなみに、園まりさんは、生前、健康に気を配り、自然食品など体に良いものを取り入れていたそうです。
園まりは幼い頃に左肘の関節が外れて肘が曲がったままになっていた
園まりさんは、2歳の時、横浜からお父さんの郷里である群馬県に疎開したそうで、その際、近所の子におんぶされていたそうですが、
誤って落とされてしまい、左肘の関節が外れてしまったそうで、お母さんが急いで骨接ぎ屋さんに連れて行ってくれたそうですが、治療はうまくいかず、ひじは曲がったままになってしまったそうです。
園まりは小学校入学を機に曲がったままの肘の手術を受け無事に成功していた
ただ、お母さんがそれを不憫(ふびん)に思い、小学校入学を機に、曲がった骨を削る手術を受けることになったそうで、手術は無事に成功し、1ヶ月ほど入院生活を送った後、無事に退院することができたそうです。
(ただ、今も毛虫のような手術の跡が残っているそうです)
ちなみに、園まりさんは、入院中、看護師さんにやさしくしてもらったことから、看護師に憧れるようになったそうです。
園まりは小学5年生の時に安西愛子主宰のコーラス・グループ「杉の子子ども会」に入団させられていた
その後、園まりさんは、小学生の時、担任の先生に、
毬子さん(園まりさんの本名)は歌が上手だから、歌の道に進まれたらどうですか?
と、言われたそうで、
この言葉をきっかけに、1954年、10歳(小学5年生)の時に、お父さんに安西愛子さん主宰のコーラスグループ「杉の子子ども会」に入団させられたそうですが、
実は、園まりさん自身は、歌うことが好きではなかったそうで、お父さんがオペラ歌手に憧れていて、自分の果たせなかった夢を、娘の園まりさんが託されたのだそうです。
(お父さんは定職にも就かず、ふらっと家を出て何週間も帰らないような人だったそうで、お母さんが内職をして家計を支えていたそうです)
園まりは12歳の時に「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてレコードデビュー
そんな園まりさんは、その後、レコード会社の児童合唱団「キング児童合唱団」に移ると、1956年、12歳の時には、本名の「薗部毬子」名義で、「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてレコードデビューを果たしたそうですが・・・
お母さんが、周囲に貧しさを感じさせないように、見た目が華やかになるようにと、クリクリのパーマをかけたり、リボンをつけたりと、園まりさんを着せ替え人形のように着飾らせたことから、園まりさんは、自分の意志とは関係なく、どんどん注目されるようになったそうで、
そのせいで、同級生から一人だけ浮いてしまい、園まりさん自身は、みんなの視線が怖くなったそうで、当時のことを、
お弁当の時間に学校放送で私の独唱が流れたときは、恥ずかしくてひっそりと食べていました。
と、語っています。
園まりは高校進学後は父親のコネでテレビ朝日のCMに出演していた
その後、園まりさんは、中学卒業後は、東洋音楽学校高等部の声楽科に進学したそうですが、
同じ頃、お父さんのコネで、突然、テレビ朝日のコマーシャル課に連れて行かれたそうで、生放送で読むようにと原稿を渡されるも、
当時のコマーシャルは生放送だったため、ぶっつけ本番で、緊張して間違えてしまったそうです。
園部まりが16歳の時にはオーディション番組「あなたをスターに」で優勝していた
また、1960年11月、16歳の時には、お父さんが、オーディション番組「あなたをスターに」に勝手に応募したそうで、
嫌々出場し、ザ・ピーナッツのヒット曲「心の窓にともし灯を」を歌唱したそうですが、なんと、優勝したそうです。
園まりは16歳の時に東映のニューフェイスにスカウトされるも面接でふてくされて落選していた
すると、東映のニューフェイスにスカウトされ、東映の面接を受けたそうですが・・・
園まりさんは、ふてくされていたそうで、そのせいか、今度は落とされてしまったそうです。
園部まりは17歳の時に「渡辺プロダクション」に入社していた
しかし、今度は、お父さんに、渡辺プロダクションの渡辺社長の自宅に連れて行かれたそうで、
渡辺社長の家に上がると、作曲家の宮川泰さんがすでにピアノの前にスタンバイしていて、「歌いなさい」と言われたそうで、
訳が分からないまま、大好きな大津美子さんの「ここに幸あり」を歌うと、見事、合格し、1961年4月、17歳の時、「渡辺プロダクション」に入社したのだそうです。
園まりは18歳の時に「鍛冶屋のルンバ」で流行歌手としてレコードデビュー
そして、翌年の1962年5月10日、18歳の時には、「鍛冶屋のルンバ」で、流行歌手としてデビューしたそうですが・・・
これは、ヒットとはならなかったそうです。
(この「鍛冶屋のルンバ」は、ベネズエラの作曲家でアルパの名手、ウーゴ・ブランコさんが作曲し、自らの楽団で演奏した「鍛冶屋のルンバ」に日本語歌詞をつけた、いわゆるカバー曲だったそうです)
「【画像】園まりの若い頃は三人娘!「何も云わないで」「逢いたくて」ほかヒット曲一覧!」に続く
1962年、18歳の時、「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビューし、同年、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと共に「スパーク3人娘」としてアイドル活動を開始すると、 1964年には、ソロで歌った「何も云わないで」が大ヒットし、1966 …