1971年、21歳の時、「雨の御堂筋」で歌手として日本デビューすると、たちまちミリオンセラーとなる大ヒットを記録し、その後も、「雨のエアポート」「恋の追跡」「恋の十字路」がヒットした、欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)さん。
そんな欧陽菲菲さんは、1978年に結婚すると、一時期、芸能活動を休止するも、1980年にリリースした「ラヴ・イズ・オーヴァー」が1987年まで続くロングヒットとなりました。
今回は、欧陽菲菲さんの、若い頃から現在までのヒット曲や経歴を生い立ちを交えて時系列でご紹介します。
欧陽菲菲のプロフィール
欧陽菲菲さんは、1949年9月10日生まれ、
中華民国台湾省台北市の出身、
身長155センチ、
血液型はO型(B型という説も)
学歴は非公開、
趣味は、音楽鑑賞、
ちなみに、「欧陽菲菲」は本名で、「菲菲」には「空を飛ぶ」という意味があるそうですが、日本でレコードデビューする際、日本には「菲」という活字がなかったことから、名前を変えるように言われたそうですが、断ったそうです。
また、結婚後は「式場欧陽菲菲」となっています。
欧陽菲菲の生い立ちは?幼少期~少女時代は父親から厳しいしつけを受けていた
欧陽菲菲さんは、パイロットのお父さん・欧陽林生さんのもと、3人きょうだい(妹と弟)の長女として誕生したそうですが、
幼少期から少女時代までは、お父さんから厳しい躾(しつけ)を受けて育ったそうで、22時の門限を破ると、家族の前で叩かれたこともあったそうです。
欧陽菲菲は18歳の時に台北市のレストラン・シアター「中央酒店」で歌手デビュー
その後の詳しい経緯は不明ですが、欧陽菲菲さんは、1967年、18歳の時、台北市のレストラン・シアター「中央酒店」で、専属歌手としてデビューしたそうです。
欧陽菲菲は20歳の時に「東芝EMI」にスカウトされて来日していた
すると、欧陽菲菲さんのダイナミックな歌声が評判を呼び、1969年、20歳の時には、日本のレコード会社「東芝EMI」にスカウトされて来日しているのですが、
スカウトの人が、1年間に10回以上も台湾まで来て、口説いてきたそうで、それで来日を決意したのだそうです。
ちなみに、来日した時に知っていた日本語は、「見る」「聞く」「(お腹が)ぺこぺこ」だけだったそうです。
欧陽菲菲は20歳の時に来日するも日本に馴染めず台湾に帰っていた
そんな欧陽菲菲さんですが、実は、日本に馴染めず、すぐに台湾に帰っていたといいます。
そして、日本のレコード会社に諦めてもらうため、倍のギャラをふっかけたそうですが、それでも了承してくれたことから、この時、ようやく、日本でやっていく覚悟を決めたのだそうです。
欧陽菲菲は21歳の時にデビュー曲「雨の御堂筋」が大ヒットを記録していた
こうして、欧陽菲菲さんは、1971年9月5日、21歳の時、ファーストシングル「雨の御堂筋」で歌手デビューすると、
抜群の歌唱力とステージでの鮮やかなパフォーマンが鮮烈な印象を与え、たちまち、136万枚を売り上げる大ヒットを記録(特に大阪で爆発的に売れたそうです)。
この年の「第13回日本レコード大賞」新人賞を受賞するほか、翌年の1972年の大晦日には、「第23回NHK紅白歌合戦」に外国人ソロ歌手として初出場を果たしたのでした。
「雨の御堂筋」
ちなみに、この「雨の御堂筋」は1971年6月5日、「ザ・ベンチャーズ」が日本で発売したシングルのカバー曲でした。
欧陽菲菲は22歳~23歳の時に「雨のエアポート」「恋の追跡」「恋の十字路」がヒット
そんな欧陽菲菲さんは、その後も、
- 1971年「雨のエアポート」
- 1972年「恋の追跡」
- 1973年「恋の十字路」
などのヒットを連発。
1970年代半ばからは、セールスが低迷したことから、海外での活動を積極的に行うと、台湾、香港、アメリカでのコンサートがいずれも成功を収め、「アジアの歌姫」としての地位を確立したのでした。
欧陽菲菲は29歳の時に「うわさのディスコ・クィーン」で復帰するもヒットしなかった
その後、欧陽菲菲さんは、1978年に結婚すると、結婚後は、一時期、芸能活動を休止するも、1979年には、レコード会社を移籍し、シングル「うわさのディスコ・クィーン」(1979年7月1日発売)で復帰。
ただ、この曲は、中国語バージョンが台湾や香港でヒットしたものの、日本では2~3万枚の売上に終わっています。
(「うわさのディスコ・クィーン」は、ノリのいいディスコナンバーでした)
「うわさのディスコ・クィーン」
欧陽菲菲は30歳の時にリリースした「ラヴ・イズ・オーヴァー」がロングヒットを記録していた
しかし、1980年7月1日、「うわさのディスコ・クィーン」のB面だった「ラヴ・イズ・オーヴァー」をA面としてリリースし、1982年9月1日には、アレンジを変更してA面として再リリースし、さらに、1983年5月には、ジャケット写真を差し替えたバージョンをリリースすると、
1983年12月には、オリコンチャート1位を獲得し、52.2万枚を売り上げる大ヒットを記録。
そんな「ラヴ・イズ・オーヴァー」は、その後も売れ続けて1987年にかけてロングヒットを記録し、欧陽菲菲さんは、人気歌手としての地位を不動のものにしたのでした。
(「ラヴ・イズ・オーヴァー」は、六本木や西麻布の夜の街界隈で、閉店間際に、歌のうまいママさんたちによってピアノの伴奏に合わせて歌われていたそうで、それを聴いたお客さんの間で「あの曲はなんだろう」と口コミで広まり、A面として再リリースされることになったのだそうです)
「ラヴ・イズ・オーヴァー」
欧陽菲菲は「ラヴ・イズ・オーヴァー」のデモテープを初めて聴いた際、身体が震えるほどの衝撃を受けていた
ちなみに、欧陽菲菲さんは、「うわさのディスコ・クィーン」と「ラヴ・イズ・オーヴァー」の2曲を同時にレコーディングしていたそうですが、
レコーディングで2曲のデモ音源を聴いた際、「ラヴ・イズ・オーヴァー」には身体が震えるほどの衝撃を受けたていたそうで、
実は私は、最初にレコーディングしたときから、『ラヴ・イズ』のほうが好きでした。スタジオで聴かせてもらったとき、鳥肌が立ったの。
「サムシングフィーリング」っていうんでしょうか。言葉ではうまく言い表せないんだけれど、身体が震えるような魅力を感じたんです。
と、語っています。
ただ、欧陽菲菲さんは、それまでのヒット曲が「雨の御堂筋」を筆頭に、「雨のエアポート」「恋の追跡」など、アップテンポのものが多かったことや、この頃の日本がディスコブームだったことから、
レコード会社の判断により、1979年に「うわさのディスコ・クィーン」がA面として発売されたのだそうです。
欧陽菲菲は44歳~45歳の時に母国台湾で「抱擁」「感恩的心」が大ヒット
そんな欧陽菲菲さんは、1990年代には、母国・台湾でも数多くのシングルをリリースすると、1993年には、ダンスユニット「Tokyo-D」と共演した「抱擁(ユン・パオ)」がミリオンセラーとなる大ヒットを記録。
また、1994年には、日本のドラマ「おしん」が台湾で「阿信」として放送され、台湾バージョン「感恩的心」がエンディングに起用されて大ヒットとなるなど、ヒットを連発したのでした。
欧陽菲菲の主なシングル一覧
それでは、ここで、欧陽菲菲さんのデビューからの主なシングルをご紹介しましょう。
- 1971年「雨の御堂筋」
- 1972年「恋の追跡」
- 1973年「恋の十字路」
- 1974年「海鴎」
- 1975年「別離のヨコハマ」
- 1976年「涙のディスコナイト」
- 1977年「その日ぐらし」
- 1979年「うわさのディスコ・クイーン」
- 1980年「ラヴ・イズ・オーヴァー」
- 1981年「星影のバラード」
- 1982年「面影ストーリー」
- 1984年「忘れていいの」
- 1985年「雨に咲く傘の花」
- 1986年「追憶」
- 1987年「愛伝説」
- 1989年「雨のメモリー」
- 1991年「ほっといて」
- 1994年「愛して」
- 2008年「雨のNEW YORK」
- 2013年「Still I Love You」
ほか、数多くのシングルをリリースしています。
「欧陽菲菲の夫との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?」に続く
1971年9月、シングル「雨の御堂筋」で日本で歌手デビューを果たすと、その後も「雨のエアポート」「恋の追跡」など、次々とシングルをリリースし、1983年7月1日にリリースした「ラヴ・イズ・オーヴァー」が大ヒットを記録した …