1977年、ロックバンド「LAZY(レイジー)」でデビューするも、1985年には、アニメ「電撃戦隊チェンジマン」の主題歌を歌唱したことがきっかけでアニメソング歌手に転向すると、その後、主に、ドラゴンボールの曲「僕達は天使だった」「CHA-LA HEAD-CHA-LA」が大ヒットし、一躍、人気を博した、影山ヒロノブ(かげやま ひろのぶ)さん。

今回は、そんな影山ヒロノブさんの、生い立ち(小学校・中学校・高校時代)をご紹介します。

影山ヒロノブ

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影山ヒロノブのプロフィール

影山ヒロノブさんは、1961年2月18日生まれ、
大阪府大阪市東住吉区の出身、

身長165センチ、

血液型はA型、

学歴は、
大阪市立南田辺小学校
⇒大阪市立田辺中学校
⇒大阪府立大和川高等学校(現・大阪府教育センター附属高等学校)
⇒明治大学付属中野高等学校定時制(編入・卒業)

趣味は、ロードバイク・ダイビング・ギター収集

ちなみに、本名は、「景山浩宣」(読み方同じ)で、作詞や作曲の際、「山景宣浩」名義を使用していたこともあるそうです。

影山ヒロノブが幼い頃は音楽好きの父親の影響で昭和歌謡、ラテン音楽、映画音楽などを聴いていた

影山ヒロノブさんは、理髪店を営むお父さんと、岡山県出身のお母さんのもとに誕生すると、幼い頃、実家はそれほど裕福ではなかったそうですが、

お父さんが音楽好きだったことから、何もない家の中にステレオだけがドーンと置いてあり、昭和の歌謡曲、ラテン音楽、映画音楽などがよく流れていたそうで、自然と音楽が耳に入ってくる環境で育ったそうです。

影山ヒロノブは小学5年生の時に高崎晃と田中宏幸と仮面ライダーごっこをして遊んでいた

そんな影山ヒロノブさんは、小学生の時に、(後にバンド「LAZY」を組むことになる)高崎晃さんと田中宏幸さんに出会うと、小学5年生の時には、3人で、近所の公園で「仮面ライダーごっこ」をして遊んでいたそうです。

影山ヒロノブは小学5年生の時に友人の高崎晃に影響を受けてギターを始めていた

しかし、そのうち、高崎晃さんがギターを始めたことから、影山ヒロノブさんもその影響を受け、ギターを始めると、近所の八百屋さんでアルバイトをし、「フォークス」という誰も知らないメーカーのフォークギターを購入し、吉田拓郎さんや岡林信康さんの曲を練習するようになったそうです。

(当時の日本のフォークは、メッセージはやたら濃かったそうですが、ギターのコードは小学生でも弾けるくらい簡単だったそうで、雑誌の「平凡」や「明星」にコード付きの歌詞がたくさん掲載されていたことから、それを見て練習していたそうです)

影山ヒロノブは小学6年生の時に「チューリップ」と「キャロル」の登場でエレキギターに猛烈に憧れるようになっていた

そんな中、小学6年生の時には、ロックバンドの「チューリップ」と「キャロル」が登場したそうですが、フォークとは段違いにかっこよく、エレキギターに猛烈に憧れるようになったそうです。

特に、「チューリップ」は、歌番組に出演した際、伴奏のビックバンドと歌手という組み合わせではなく、「ロックバンド」として登場していたそうで、長い髪や、服装を含め、その姿がしびれるほどかっこよかったそうです。

また、ほぼ同時期に、高崎晃さんのお兄さんから、イギリスのハードロックバンドのディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」を聴かされて衝撃を受けたそうで、中学生になる頃には、エレキギターでバンドがやりたくて仕方なくなっていたそうです。

ディープ・パープルのハイウェイ・スター

(高崎晃さんには大学生のお姉さんと高校生のお兄さんがおり、2人とも、かなりの音楽好き、特にロック好きだったことから、弟である高崎晃さんはその影響を受け、ほかの子たちに比べると、音楽情報ツウで、かなりマセていたそうです)

影山ヒロノブは中学1年生の時にロックバンド「LAZY(レイジー)」を結成していた

そんな影山ヒロノブさんは、中学1年生の時に、「フリージャー」という名前の、誰も知らないメーカーのストラト・キャスター(エレキギターのモデル名)を購入すると、周りもみんなギターだったため、みんなで集まってギターをジャカジャカ弾いていたそうですが、

そのうち、やっぱり、バンドがしたくなり、やがて、高崎晃さんや田中宏幸さんらとともにロックバンド「LAZY(レイジー)」を結成したのだそうです。

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影山ヒロノブは高校に進学する頃にサイドギターからヴォーカルに転向していた

ちなみに、結成当初、影山ヒロノブさんは、サイドギター担当だったそうですが、高校に進学する頃、ヴォーカルを担当していた友達が、キーが高すぎてレインボーやレッド・ツェッペリンのカバー曲が歌えないと言い出し、

ある時、影山ヒロノブさんがその友達の代わりに歌ってみたところ、高い音まで無理なく出すことができたことから、

その友達に、

じゃあ、カゲ、ヴォーカルになれよ

と、言われ、

ヴォーカルに転向したそうで、

影山ヒロノブさんは、

それまでに親父のステレオでレコードかけながら自宅で歌ってはいましたけど、本格的にボーカルということになったのは、この時が初めてですね。

と、語っています。

「【画像】影山ヒロノブの若い頃は?LAZY(レイジー)時代の経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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