1977年4月5日にリリースした24枚目のシングル「北国の春」は、通常のタキシード姿ではななく、自ら考案した”出稼ぎスタイル”で歌唱したことが功を奏し大ヒットした、千昌夫(せん まさお)さんですが、ほかにも、歌手活動を事業と見立てて、売れるための様々な戦略を立てていたといいます。
「千昌夫は昔「北国の春」が300万枚売上の大ヒットとなっていた!」からの続き
「星影のワルツ」と「北国の春」は時間をかけてヒットさせていた
千さんは、「星影のワルツ」も「北国の春」も、発売からじわじわと時間をかけ、約3年かけて300万枚のセールスを記録しているのですが、
一般的には、歌手が、1曲の歌を、売れるまで1年も2年も歌い続けることはなく、しばらくたって売れなければ、すぐに次の新曲に取り掛かる、ということを繰り返していたそうです。
売れると見込んだ曲は周囲の反対を押し切って歌い続けていた
ただ、千さんはというと、あきらめの早い歌手とは違い、この曲が売れる、と判断すれば、たとえ、所属のプロダクションや発売元のレコード会社から見捨てられても、粘り強く歌い続けたそうで、結果、それが大ヒットにつながっていったのですが、
(歌番組に出演する際にも、新曲ではなく、2~3年前に発売した曲を歌うと言ったこともあったそうです)
千さんが、このようにしたのは、成功するまであきらめないという自身の性格に加え、当時の千さんをとりまく環境が大きかったそうです。
歌唱力ではなく強い個性と1曲を粘り強く歌い続ける戦略を立てていた
というのも、当時、千さんの周りには、いつも、森進一さん、五木ひろしさん、布施明さんなど、歌の上手な歌手がいて、さらには、3人共、次々とヒット曲を連発していたそうですが、
(全員、年齢が同じだそうです)
千さんはというと、3人よりも歌唱力が落ちるうえ、個性も強かったことから、なかなか、不特定多数のファンの支持を得られなかったのだそうです。
そこで、千さんは、持ち前の個性を意識的にさらけ出して強い印象を与えるほか、歌の1曲1曲に狙いを定め、粘り強く歌い続けるという戦略を立てたそうで、
3か月に1枚、新曲を作ってたので、レコード会社に『次の新曲に切り替えを』と言われたけど、僕は『こんなもんで終わる歌じゃない』と。
録音したら新曲として発売されちゃうから、新曲レコーディングの当日に、頭が痛い、腹が痛いとかウソをついて15回くらい休んだんです(笑)
そうこうしてるうちに『北国の春』はバーンと売れに売れた。自分にしか分からない信念があったんです
と、語っています。
「千昌夫が全盛期も地方公演に200ヶ所以上行っていた理由とは?」に続く