1964年9月、「第15回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝すると、1965年6月には、「松山まさる」名義で、ファーストシングル「新宿駅から/信濃路の果て」で歌手デビューを果たされた、五木ひろし(いつき ひろし)さん。そんな五木さんの、生い立ち、デビュー、売れなかった時期について、調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?韓国人?

五木さんは、1948年3月14日生まれ、
福井県三方郡美浜町のご出身(京都府生まれ)、

身長173センチ、

血液型はA型、

学歴は、
鳥羽市立加茂小学校
⇒福井県内の中学校卒業
⇒関西音楽学院中退?

ちなみに、五木さんはもともと韓国人で、出生名は「李和夫」だったのですが、後に日本へ帰化して日本国籍を取得し、本名を「松山数夫(まつやま かずお)」と変更されています。

また、「五木ひろし」の芸名は、作詞家の山口洋子さんが、「いいツキをひろう」という語呂の良さから名付けられたそうですが、それまでは、「松山まさる」「一条英一」「三谷謙」「中川淳」と、数多くの芸名に変更されていました。

(現在も、仕事によっては、「松山かずお」(作曲時のペンネーム)、「松園明」(特別公演、歌謡ショー、構成・演出)と別名義も使われています)

生い立ち

五木さんのお父さんは、韓国系の鉱山技師だったそうで、鉱脈を追って家族で各地を転々とされているなか、1948年、京都で五木さんが誕生します。

そして、五木さんが幼稚園の時には三重県鳥羽市に移り、小学2年生の時には福井県美浜町に移られると、そこで、お父さんは、技師を辞め、建築用石材を扱う会社を興されるのですが、五木さんが小学校5年生の時、家を出ていってしまい、両親は離婚。

それ以来、幼い五木さんとほかの兄弟姉妹は、お母さんに女手一つで育てられたのでした。
  
(五木さんは、4人兄弟の末っ子で、お姉さんが二人、お兄さんが一人いらっしゃいます)

小学生で歌手を目指す

そんな五木さんは、歌が好きだったお父さんの影響で、幼い頃から歌を歌うのが好きで、小学校へ入学した頃にはすでに、

将来は歌手になる

と、周りの友達に宣言。

さらに、小学校時代には、映画の撮影で福井県美浜町を訪れた美空ひばりさんを見て、美空さんに憧れ、いっそう、歌手になる、という気持ちを強くされると、

1963年3月、中学卒業の翌日、一番上のお姉さんを頼って、単身京都に移られ、「関西音楽学院」に入学。


当時の五木さん。

約1年後の1964年5月には、作曲家の上原げんとさんを紹介されると、プロの歌手を目指すべく上京し、上原さんの内弟子となられたのでした。(松方弘樹さんもともに歌を学ばれたのだそうです)

「松山まさる」として「新宿駅から」で歌手デビュー

そして、上京してから4ヶ月後の1964年9月には、「第15回コロムビア全国歌謡コンクール」で見事優勝し、「コロムビア」の専属歌手となられると、

翌年の1965年6月には、「松山まさる」名義で、ファーストシングル「新宿駅から/信濃路の果て」(上原さん作曲)で歌手デビューされるのですが・・・

同年8月、これからという時に、師匠の上原さんが、避暑地に向かう車中、「心筋梗塞」で急死。

後ろ盾を失った五木さんは、

1965年11月「母と子の道」
1966年2月「お月見おどり」
     3月「働きながら学ぶ友」

と、立て続けにシングルを発表するも、どれもパッとせず、1967年には、再起を図るため、「日本グラモフォン」へ移籍されたのでした。

(この時期、五木さんは、都はるみさんや北島三郎さんら大御所歌手の前座ほか、キャバレー巡りなどの地方巡業が主な仕事だったそうです)

「一条英一」に改名し「俺を泣かせる夜の雨」で再デビュー

こうして、「日本グラモフォン」へ移籍された五木さんは、心機一転、芸名を「一条英一」に改名されると、1967年4月には、「俺を泣かせる夜の雨」「ポリドール・レーベル」から再デビューし、

その後も、

1967年8月「俺のキッスは嘘じゃない」
1968年5月「波止場のマリー」

と、シングルをリリースするのですが・・・やはり、売れず。

しかも、1968年には、追い打ちをかけるように、所属していたプロダクションが倒産し、契約は解除。仕事を失った五木さんは、やがて、貯金も尽き、食べ物にも困るようになったのでした。

(机の引き出しの奥から出てきたフジテレビの食堂の食券を握り締め、当時、住んでいた東中野のアパートから、河田町(新宿区)にあったフジテレビの社屋まで約5キロの道のりを歩いて行ったこともあったそうです。)

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「三谷謙」に改名し「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再々デビュー

そんな中、同棲していたホステスから弾き語りを勧められ、新宿のサパークラブ「ボンゴ」で、歌謡曲のギターの弾き語りを始められると、これが評判を呼び、半年ほど経った頃、銀座の高級クラブ「久爾(くに)」から声がかかります。

それからは、午後7時から11時半までは「ボンゴ」、午前0時半から5時までは「久爾」と、2つのクラブを掛け持ちするようになり、ハードな生活ながら、ようやく食べていけるようになられたのでした。

そして、当時は、売れない歌手の五木さんを引き受けてくれるレコード会社がなかったのですが、偶然、「久爾」のママが元歌手で、弟さんがミノルフォンレコード(現在の「徳間ジャパン」)の社員だったことから、「ミノルフォンレコード」の社長で作曲家の遠藤実さんを紹介されて、「ミノルフォン」と契約。

(ちなみに、五木さんは、社長室で社長の遠藤さんから、遠藤さんが東京でギターの流しをして居酒屋をまわっていた頃、冬の寒い時、手がかじかんでギターを弾けず、温める暖房も手袋もなかったことから、仕方なく自分のおしっこで温めたという話を聞いたそうで、自分の苦労など苦労のうちに入らない、と思われたそうです。)

1969年12月には、3度目の正直で売れたいという願いを込め、「三谷謙」に改名し、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再々デビューを果たされたのですが・・・

やはり、さっぱり売れず。

しかも、その直後には、遠藤実さんが他のレコード会社に引き抜かれ、後ろ盾まで失ってしまったのでした。

「五木ひろし初ヒットはよこはまたそがれ!代表曲ほかディスコグラフィーは?」に続く

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