上京して4ヶ月後の1964年9月には、「第15回コロムビア全国歌謡コンクール」で見事優勝し、すんなり「コロムビア」の専属歌手となられた、五木ひろし(いつき ひろし)さんですが、肝心のレコード売上はさっぱり。しかし、ついに、1971年3月、「よこはま・たそがれ」大ヒットとなります。

「五木ひろしは韓国人?生い立ちは?若い頃は何度も改名!銀座のクラブで?」からの続き

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オーディション番組「全日本歌謡選手権」

1969年、21歳の時には、三度目の正直と「三谷謙」に改名して、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再々デビューを果たすも、さっぱり売れず、しかも、直後には後ろ盾の遠藤実さんも失ってしまうなど、「泣きっ面に蜂」状態の五木さんでしたが、

それでも、五木さんは、ギターの弾き語りの仕事をしながら、じっとチャンスを伺っていると、1970年、22歳の時、故郷・福井の放送局「福井放送」のプロデューサーに、オーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場することを勧められます。

(この番組は、プロアマ問わず出演すできるオーディション番組で、売れない歌手の再起を促す番組でもあったそうです)

ただ、五木さんは、レコードは売れなかったものの、銀座のクラブでの弾き語りでは、50万円もの月収(現在の貨幣価値で約100万円)を稼いでおり、

もし、オーディションに落ちてしまったら、プロの歌手として失格の烙印を押されてしまい、弾き語りの仕事にも大きな影響が出てしまうことから、この生活を捨ててまで出場するべきかと、ずいぶん悩まれたのでした。

「よこはま・たそがれ」が大ヒット

しかし、

もし、10週勝ち抜けなかったら、福井県に帰って、おふくろの農業を受け継ごう

と覚悟を決め、歌手生命のすべてを賭けて、「ミノルフォン」専属のプロ歌手「三谷謙」として出場されると、あれよあれよと10週連続勝ち抜き、見事、グランドチャンピオンに。


「全日本歌謡選手権」より。司会の長沢純さん(左)と五木さん(右)。

これにより、五木さんは、歌手として再デビューする権利を獲得されると、「全日本歌謡選手権」の2週目の審査員だった、作詞家の山口洋子さんと平尾昌晃さんに師事し、

1971年3月、芸名を「五木ひろし」に改名して、「よこはま・たそがれ」(山口さん作詞・平尾さん作曲)で再々々デビューされると、64.2万枚を売り上げる大ヒットを記録。


「よこはま・たそがれ」

そして、翌年の1972年8月に発売したセカンドシングル「長崎から船に乗って」も、44.5万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年、「第4回日本レコードセールス大賞男性新人賞」を受賞されたのでした。


「長崎から船に乗って」

また、「よこはま・たそがれ」では、「第4回新宿音楽祭金賞」「第2回日本歌謡大賞放送音楽賞」「第13回日本レコード大賞歌唱賞」と、栄えある賞を次々と受賞され、念願の「第22回NHK紅白歌合戦」の初出場も果たされたのでした。

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代表曲ほかディスコグラフィー

そして、五木さんは、その後も、

1972年2月「かもめ町みなと町」(16.4万枚)
     5月「待っている女」(27.8万枚)
     9月「夜汽車の女」(8.5万枚)
     11月「旅鴉」(15.9万枚)
     12月「あなたの灯」34.2万枚


「かもめ町みなと町」「あなたの灯」

1973年3月「霧の出船」(23.3万枚)
     7月「ふるさと」38.7万枚
     10月「狼のバラード」(2.2万枚)
     10月「夜空」44.7万枚


「ふるさと」「夜空」

1974年3月「別れの鐘の音」(17.0万枚)
     6月「紅い花」(3.2万枚)
     6月「浜昼顔」39万枚
     10月「みれん」37.9万枚
     11月「明日の愛」(8.1万枚)
1975年2月「哀恋記」(16.7万枚)


「浜昼顔」「みれん」

     3月「さくら音頭」(9.4万枚)
     5月「千曲川」45万枚
     9月「ふたりの旅路」(22.8万枚)
1976年2月「愛の始発」(27.7万枚)
     6月「北酒場」(15.4万枚)


「千曲川」「愛の始発」

     7月「旅人」(3.7万枚)
     9月「どこへ帰る」(15.2万枚)
1977年2月「途中駅」(8.2万枚)
     5月「風の子守唄」(9.5万枚)
     7月「今日だけは」(0.5万枚)
     9月「灯りが欲しい」(20.3万枚)


「旅人」「灯りが欲しい」

と、山口&平尾コンビ作品を中心に立て続けにシングルをリリースすると、次々とヒットを飛ばし、人気演歌歌手として、不動の地位を確立。

その後も、

1979年10月「おまえとふたり」91.7万枚※五木さん最大のヒット曲
1980年3月「倖せさがして」49.0万枚
1980年8月「ふたりの夜明け」36.7万枚
1981年8月「人生かくれんぼ」(29.8万枚)
1982年7月「契り」(22.7万枚)
1983年9月「細雪」44.6万枚

1984年4月「長良川艶歌/おはん」67.1万枚
1985年4月「そして・・・めぐり逢い」(27.8万枚)
1986年6月「浪花盃」(21.5万枚)
1987年4月「追憶」31.1万枚
1991年10月「おしどり」35.6万枚
1994年10月「汽笛」(25.1万枚)

と、長年に渡って、コンスタントにヒットを飛ばされたのでした。

ちなみに、後に五木さんは、

審査員の3人(船村徹さん、山口さん、平尾さん)はすでに他界されましたが、振り返れば誰かが助けてくれる。その連続でした。今も深く感謝するとともに、自分自身にも、よくぞ、やけにならなかったなと思います。

自分の歌唱力を信じていたし、おふくろのためにも成功したいと思い定めていましたからね。

と、語っておられ、

23歳の時に、「よこはま・たそがれ」のヒットでお母さんを故郷・福井から東京に呼び寄せられると、40歳まで(結婚するまで)目黒の2DKのマンションで同居され、30歳の時には、身の回りの世話をしてくれるお母さんのために、都内に家を建てられています。

「五木ひろしの現在は?嫁の和由布子とは?子供は?」に続く

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