17歳の時、「児童漫画家募集(神田の日昭書店)」という新聞の三行広告を見て、日昭書店を訪ねると、その場で、石橋国松社長に漫画の基本的な描き方を教わり、言われるがままに原稿を描き続けたという、ちばてつやさんは、その後、石橋社長に、その原稿を一冊の本にまとめた「復讐のせむし男」を出版してもらうと、その後も、高校に通いながら貸本の漫画を描き続け、1958年、19歳の時には、「少女ブック」(「舞踏会の少女」)で雑誌デビューも果たします。

「ちばてつやは17歳の時から本格的に漫画を描き始めていた!」からの続き

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「復讐のせむし男」で漫画家デビュー

17歳の時、新聞で、東京・神田の日昭書店「児童漫画家募集」の三行広告を見つけ、訪ねると、その場で、石橋国松社長から、漫画の描き方の基本を教えてもらい、試しに描いてくるよう言われたというちばさんは、それから約3ヶ月間に渡り、続きを描くように言われ、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行ったそうで、

(当時は、貸本漫画が全盛の時代だったため、どこの町内にも貸本屋があり、ちばさんが訪ねて行った日昭書店も、そのような貸本屋専門の小さな出版社のうちのひとつだったそうです)

教わった通り一生懸命描いていれば、(漫画家になれるとは思っていなかったそうですが)漫画を描く人のお手伝いなど、何か仕事をくれるだろう、という気持ちで描いたそうです。

すると、128ページ目で話を終わらせるように指示されたそうで、最後の原稿を持っていくと、石橋社長からは、その場で、原稿料として(当時の大卒の初任給に匹敵する)1万2351円を手渡され、

(ちばさんは目を疑ったそうです)

1956年、ちばさんが持ち込んだ原稿を一冊の本にまとめた「復讐のせむし男」が貸本として出版されたのだそうです。

(これがちばさんの漫画家デビュー作)

栄養失調で病気になった両親に代わり家計を支えるため様々なアルバイトをするもヘマばかりしていた

実は、満洲から帰国後、両親共に栄養失調で病気になってしまい、ちばさんは、家計を支えようと、いろいろなところでアルバイトをしていたそうですが、

どうも要領が悪く、ヘマばかりしていたそうで(配達では違う家に届けたりしていたそうです)、最後に残った漫画だけがお金になり、今となっては、天の計らいだったのではと思っているそうです。

雑誌デビュー作は少女漫画「舞踏会の少女」

以降、ちばさんは、高校に通いながら貸本の漫画を描き続けたそうで、1958年、高校を卒業前には、先輩の漫画家・鳥海やすさんの紹介で、「少女クラブ」の編集部を訪れ、自身が描いた江戸川乱歩原作の「魔法人形」の漫画を見せると、採用されたそうで、まずは、読み切りの少女漫画「リカちゃん」を描いたそうです。

すると、同じ頃に訪れていた「少女ブック」の編集部からも仕事を依頼されたそうで、今度は、読み切りの少女漫画「舞踏会の少女」を描いたのだそうです。

(2作品とも1958年に発表されたそうですが、「少女ブック」が先に発売されたため、「舞踏会の少女」が雑誌デビュー作となったそうです)

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少女漫画を描いていた理由

ちなみに、なぜ、男性のちばさんが少女漫画を描いていたかというと、当時、少女漫画は、かわいい女の子を描くことができればデビューでき、仕事をもらえたそうで、

一方、少年漫画は、手塚治虫さん、横山光輝さんなど大御所がたくさんいて新人が入る隙がなかったのだそうです。

(漫画家は、徹夜があったことから、少女漫画、少年漫画にかかわらず、当時は男性の仕事で、赤塚不二夫さん、松本零士さん、石ノ森章太郎さんらも、少女漫画からデビューしています)

「ちばてつやが若い頃は少年誌と少女誌の二刀流だった!」に続く

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