ファッションモデルを経て、1966年、15歳の時、「こまっちゃうナ」で歌手デビューすると、100万枚を売り上げる大ヒットを記録し、
1972~1973年、21歳の時にも、「どうにもとまらない」「狂わせたいの」「狙いうち」などが次々とヒットし、「リンダブーム」を巻き起こした、山本リンダ(やまもと りんだ)さん。
そんな山本リンダさんは、1歳になる前に米兵だったお父さんが朝鮮戦争で他界され、お母さんに育てられたそうですが、貧しく生活が苦しかったほか、当時はハーフが珍しかったことから、イジメられていたといいます。
今回は、山本リンダさんの生い立ち(幼少期から21歳で「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」などヒットを連発するまで)をご紹介します。
山本リンダのプロフィール
山本リンダさんは、1951年3月4日生まれ、
福岡県小倉市(現・北九州市)の出身、
身長168センチ、
スリーサイズは、89-61-90、
血液型はO型、
学歴は、
横浜市立神橋小学校
⇒横浜市立六角橋中学校
⇒横浜港高校(現・横浜総合高校)卒業?
だそうです。
山本リンダの本名は?芸名の由来は?
山本リンダさんの本名は、「山本あつ子」(やまもと あつこ)というそうで、結婚後は「稲葉あつ子」(いなば あつこ)になったそうです。
また、芸名の「リンダ(Linda)」は、もともとは、アメリカ人のお父さんに付けられた愛称だったそうで、
(「linda」には、スペイン語で「かわいい」「愛しい」という意味があり、女の子を呼ぶ時に使う言葉だそうです)
芸能界に入り、事務所の社長さんにこの話をしたところ、
ああ、それはいいね、山本リンダにしよう
と言われ、「山本リンダ」に決まったのだそうです。
山本リンダは1歳になる前に米兵の父親が朝鮮戦争で戦死していた
山本リンダさんは、アメリカ軍の兵士だったお父さんのマイクさんと福岡県小倉市のダンスホールでダンサーをしていたお母さんの百合子さんのもと誕生したそうですが、
山本リンダさんが1歳になる前に、お父さんが朝鮮戦争で戦死してしまい、山本リンダさんはお母さんに女手一つで育てられたそうです。
赤ちゃんの頃の山本リンダさんと父・マイクさん、母・百合子さん。
山本リンダの幼少期は生活が苦しかったうえ、ハーフであることを理由にイジメられていた
その後、山本リンダさんは、4歳の時、お母さんと共に福岡県小倉市から横浜市に転居すると、お母さんは、内職や魚市場で働いて家計を支えてくれたそうですが、生活は苦しかったそうです。
また、当時は、まだハーフが珍しかった時代で、山本リンダさんは、近所の子供たちから、”合いの子”と言われ、イジメられたそうです。
山本リンダの幼少期は母親の影響で音楽が好きになっていた
山本リンダさんは、音楽が好きだったお母さんの影響を受けて、音楽が好きになったそうですが、
福岡県小倉市にいる時、間借りしていた家に蓄音機があり、お母さんは、その蓄音機を10畳の部屋の真ん中に置いて、よく音楽をかけてくれたそうで、
山本リンダさんがその音楽に合わせて回るのが楽しみだと言ってくれたそうです。
山本リンダは小学3年生の頃モデルに憧れるようになっていた
そんな山本リンダさんは、物心ついた頃から歌を歌うことも好きになり、歌手に憧れるようになったそうですが、
(朝から晩まで歌を歌っている子供だったそうです)
小学3年生のある時、近所の人に、
あっこちゃんは、大きくなったらモデルさんになるといいわね
と、言われたことで、モデルというものに興味が沸いたそうで、
早速、本屋に行ってファッション雑誌を開くと、きれいな服を着てポーズを決めたモデルたちがいたそうで、山本リンダさんは、モデルになりたいと思うようになったそうです。
山本リンダは小学6年生の時にファッションモデルとして活動を開始していた
そして、小学6年生(12歳)の時には、近所の人がファッション雑誌「装苑」の少女モデル募集の記事の切り抜きを持って来てくれたそうで、
お母さんに相談してすぐに応募すると、見事採用され、少女モデルとして12歳から1年契約をしたのだそうです。
そして、1年が経ち、契約は終了したそうですが、山本リンダさんは、モデルの仕事を職業として続けたいという思いが募ったそうで、
勇気を出し、自分から出版社に売り込みの電話を片っ端からすると、何社かから仕事をもらえるようになったそうで、
その後、中学3年生の時には、カメラマンが有名なモデルクラブを紹介してくれ、そのモデルクラブに所属することができたのだそうです。
モデル時代の山本リンダさん。
山本リンダは高校1年生の時にNHKの音楽番組「夢のセレナーデ」でテレビデビュー
そんな山本リンダさんは、高校1年生の時には、NHKの音楽番組「夢のセレナーデ」で日本初のカバーガールに抜擢されてテレビデビューを果たしているのですが、
山本リンダさんは、
クラシック系の番組だったんですが、プロデューサーさんがシャンソンがお好きで、岸洋子さんや芦野弘さんも時々ゲストで出られていて、二期会の方達も時々シャンソンを歌われたりして。シャンソンがとても好きになっていきました。
と、語っています。
山本リンダが高校生の頃はモデル業と並行して歌のレッスンにも通っていた
実は、山本リンダさんは、モデルの活動と並行して歌のレッスンにも通っていたそうで、
この子に洋服を着せて演歌を歌わせよう
と、考えた事務所の社長に、作曲家の遠藤実さんの所に連れて行かれたそうです。
そこで、遠藤実さんにどんな歌を歌うのか尋ねられ、「夢みるシャンソン人形」という歌を歌ったところ、遠藤実さんは、ポップス調の曲「こまっちゃうナ」を作ってくれたのだそうです。
(「夢みるシャンソン人形」は、1965年にフランスで発売されると、フランス・ギャルさんが歌い、世界中で大ヒットしたそうです)
山本リンダは15歳の時にデビュー曲「こまっちゃうナ」が大ヒット
こうして、山本リンダさんは、1966年、15歳の時、遠藤実さん作詞作曲の「こまっちゃうナ」で歌手デビューを果たすと、100万枚を売り上げる大ヒットを記録し、一躍、人気を博したのでした。
「こまっちゃうナ」
山本リンダは20歳の時に特撮ドラマ「仮面ライダー」のマリ役で知名度が急上昇していた
ただ、その後は、次々と曲をリリースするも全く売れず、人気は低迷。
それでも、1971年、特撮ドラマ「仮面ライダー」の第14話と第39話にマリ役で出演すると、「仮面ライダー」のヒットと共に、山本リンダさんのお茶の間の知名度も急上昇したのでした。
「仮面ライダー」より。
山本リンダは21歳の時「どうにもとまらない」の大ヒットで再ブレイクしていた
そんな山本リンダさんは、1972年6月5日、阿久悠さんと都倉俊一さんのゴールデンコンビによるシングル「どうにもとまらない」をリリースすると、大ヒットを記録し、再び、歌手として脚光を浴びています。
「どうにもとまらない」
山本リンダが21歳の時には「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」などヒットを連発していた
すると、その後も、山本リンダさんは、阿久悠さんと都倉俊一さんのゴールデンコンビによってリリースした、「狂わせたいの」(1972年9月5日)、「じんじんさせて」(1972年11月25日)、「狙いうち」(1973年2月25日)で、大胆な衣装に身を包み、情熱的なダンスでエロティックに歌い上げると、
そのスタイルが人気を呼び、ヒットを連発したのでした。
「山本リンダの夫・稲葉光彦との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?」に続く
「狙いうち」
1966年、15歳の時に、「こまっちゃうナ」で歌手デビューし、いきなり100万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、その後も、「どうにもとまらない」「狙いうち」などが次々とヒットし、”リンダブーム” …