1966年「星影のワルツ」、1977年「北国の春」が相次いで大ヒットし、演歌界のスターに上り詰めると、歌手活動と並行して、不動産事業でも成功を収めて最盛期には2000億円規模の資産を築くも、バブル崩壊で1032億円もの負債を抱えて破綻していたという、千昌夫(せん まさお)さん。

今回は、そんな千昌夫さんの、若い頃(レコードデビュー以降)から現在までのヒット曲(シングル)と共に、不動産事業などの経歴を時系列でご紹介します。

千昌夫

「千昌夫の生い立ちは?幼少期は貧乏!高2で家族に内緒で遠藤実に弟子入り!」からの続き

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千昌夫は18歳の時に「君が好き」でレコードデビューを果たすも全く売れなかった

遠藤実さんの内弟子となった千昌夫さんは、それから数ヶ月後の1965年9月、念願のファーストシングル「君が好き」で、レコードデビューを果たしたそうですが、全く売れず、

千昌夫

続く2枚目の「若い恋人たち」(1965年12月)、3枚目の「君ひとり」(1966年)も全く売れず、鳴かず飛ばずの日々が続いたそうです。

そして、そんな中、1966年秋、千昌夫さんは、些細なことが原因で、師匠の遠藤実さんを激怒させてしまい、住まいを追い出されてしまったのだそうです。

(歌手デビューして、シングル3枚出しても売れなかったことから、見込みがないと判断されたようです)

千昌夫は20歳の時に「星影のワルツ」が累計250万枚を売り上げる大ヒット

そんな中、千昌夫さんは、一時は、絶望し、故郷に戻って左官屋を継ぐことも真剣に考えたそうですが、アルバイトをしながら歌手の道を模索していると、

全く売れなかった3枚目のシングル「君ひとり」(1966年リリース)のB面に収録されていた「星影のワルツ」が、有線放送で徐々に人気を集めたそうで、

1968年3月、「星影のワルツ」がA面として再発売されると、累計250万枚を売り上げる大ヒットとなり、千昌夫さんは一躍スターダムにのし上がったのでした。

(千昌夫さん自身も、この曲を広めるために、酒場を回って歌い、レコードを売ったり、公衆電話から有線放送に何度もリクエストしたりと、地道な努力を続けていたそうです)

「星影のワルツ」
「星影のワルツ」

千昌夫は22歳の時に資産運用で巨額の利益を生み出していた

ただ、千昌夫さんは、夢にまで見たスターの座に上り詰めた後も、他の歌手のように、豪遊や浪費を一切せず、ケチケチとした節約生活を続けていたそうで、

そんな中、レコード会社の親会社である太平住宅の専務・竹村正也氏から、

無駄遣いをせず土地を買ってはどうか

と、アドバイスを受け、

仙台郊外の5万坪、価格約2000万円の山林に目をつけると、竹村正也氏から2000万円を借り入れ、1970年、22歳という若さでその広大な土地を購入。

その後、この土地は、調整区域に指定されて宅地開発はできなくなったそうですが、この土地を担保に事業を展開したそうで、

1976年には、金融業者から7500万円の融資を受けると、これを元手に巨額の利益を生み出し、最盛期には、2000億から3000億とも言われるほどの資産を持つまでになったのだそうです。

千昌夫は29歳の時に手持ち資金なしで一等地を購入していた

ちなみに、千昌夫さんは、1972年に自身の会社「アベインターナショナルベンチャーズコーポレーション」を設立して、事業家としての道を歩み始め、

1976年、29歳の時には、手持ち資金ゼロで、東京・赤坂の約35坪の土地を1億2000万円で購入しているのですが、

この驚くべき取引を可能にしたのは、銀行からの融資だったといいます。

そして、その後も、千昌夫さんは、不動産業で資産を増やしていったのだそうです。

千昌夫は29歳の時に「北国の春」が累計300万枚を売り上げる大ヒット

そんな千昌夫さんは、歌手としても、1977年4月にリリースした24枚目のシングル「北国の春」が、累計300万枚を売り上げる大ヒットを記録し、6年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場を果たしているのですが、

この「北国の春」は、師匠である作曲家・遠藤実さんがわずか5分で作曲したそうで、当初はB面だったそうですが、千昌夫さんがメロディーの素晴らしさに着目し、遠藤実さんに直訴してA面に変更してもらったのだそうです。

(千昌夫さんは、自身が故郷から上京した時の境遇と重ね合わせ、歌の世界観に深く共感したのだそうです)

「北国の春」
「北国の春」

千昌夫は歌手活動を事業と見立て、売れるための戦略を立てていた

実は、千昌夫さんは、歌手活動を事業と見立て、売れるための様々な戦略を立てていたそうで、「星影のワルツ」「北国の春」は、時間をかけてヒットさせていたといいます。

また、千昌夫さんは、全盛期の時も、年間200ヶ所以上の地方公演をこなしていたそうですが、

なぜかというと、地方公演はギャラが高く、自分の好きな曲が自由に歌えるうえ、新曲の宣伝効果も期待できたからだったといいます。

さらに、千昌夫さんは、ファンはもちろんのこと、人との出会いやつながりを大切にしていたそうで、それが、新たなビジネスチャンスの獲得につながっていったのだそうです。

千昌夫は41歳の時に多額の借金を抱え芸能活動を停止していた

そんな千昌夫さんは、当初、自身の知名度が不動産事業の成功に繋がっていると考えていたそうで、歌手活動と事業の両立は息抜きにもなっていたそうですが・・・

借金で不動産を買い、その値上がり益を担保に新たな投資を行う自転車操業的な経営で事業を拡大した結果、多額の負債を抱え返済に追われるようになったそうで、

1988年、41歳の時には、ついに、事業に専念するため、歌手活動を休止したのでした。

千昌夫が43歳の時には借金返済のために「おやじ先生」をリリースしていた

しかし、バブル崩壊で、経営はさらに悪化したそうで、

1991年3月には、5年ぶりに、新曲「おやじ先生」を発売して歌手として復帰し、高額なギャラを得るも、この頃は、「売れる物は何でも売る」と語るほど、厳しい状況に立たされたのだそうです。

「おやじ先生」
「おやじ先生」

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千昌夫は53歳の時に1000億円の借金を抱え破綻するも誠実な対応をしていた

そんな千昌夫さんは、返済のため毎月15〜16か所の地方公演を日帰りでこなすなど過酷な歌手活動を続け、マスコミにも「へこたれない」と常に前向きに語っていたのですが、

月収が1億円近くあっても高額な利息には及ばず、2000年には、会社は1032億円の負債を抱え事実上破綻。

それでも、千昌夫さんは、破産はせず、債権者との対話を重視する誠実な法的整理「特別清算」を選択して、逃げも隠れもせず真摯(しんし)に対応したそうで、

融資した銀行側からも、千昌夫さんを悪く言う声はほとんど上がらなかったのだそうです。

お読みいただきありがとうございました

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