1965年、18歳の時、「君が好き」でレコードデビューすると、1966年に発売された「星影のワルツ」が、翌1967年にミリオンセラーの大ヒットを記録し、その後も、1977年に発売された「北国の春」がミリオンセラーとなった、千昌夫(せん まさお)さん。
そんな千昌夫さんは、広大な農地を持つ裕福な農家に誕生するも、戦後の農地改革でほとんどの土地を失い、幼い頃は、貧しい生活を余儀なくされたそうで、
貧しい生活から抜け出すため、高校生の時、歌手になることをひらめくと、高校2年生の時には、歌手になるため、家族に内緒で上京し、作曲家の遠藤実さんに弟子入りしたといいます。
今回は、千昌夫さんの、生い立ち(幼少期から高校2年生で遠藤実さんに弟子入りするまで)をご紹介します。
千昌夫が幼い頃は貧しい暮らしを余儀なくされていた
千昌夫さんは、広大な農地を持つ裕福な農家(阿部家)に、父・健樹さんと母・みどりさんのもと、3人兄弟の次男として誕生したそうですが、
戦後、1946年から1950年にかけて、連合国軍総司令部(GHQ)の指導のもと行われた農地改革により、ほとんどの土地を失ってしまったそうで、
農業で得られる収入はわずかとなり、家族5人が食べるのが精一杯という状況になってしまったそうです。
また、そんな中、千昌夫さんが小学4年生の時には、左官として出稼ぎに出ていたお父さんが48歳で亡くなったそうで、
家計を支えるため、お母さんが往復4時間かけて工場へ働きに出ることになったそうですが、収入は少なく、電気代の支払いも困難となって、電気が止められることもあったそうで、
千昌夫さんは、冷え切った暗い部屋で、就学前の弟の子守をしながらお母さんの帰りを待つ、苦しい幼少期を過ごしたのだそうです。
1965年、「君が好き」で歌手デビューして以来、50年以上に渡り、芸能界で活動している、千昌夫(せん まさお)さん。今回は、そんな千さんの生い立ちをご紹介します。 Sponsored Link 年齢は?出身は?身長は? …
千昌夫の高校時代はアルバイトに明け暮れるも貧しい生活から抜け出す方法を思案していた
また、千昌夫さんのお兄さんは、家計を助けるため、中学卒業後、すぐに左官の年季奉公に出ていたそうで、
千昌夫さんも、そんなお兄さんに倣(なら)い、自身も左官になろうと考えていたそうですが、千昌夫さんは、お母さんの勧めで高校に進学することになったそうです。
ただ、学校への通学が片道3時間かかることから、下宿生活を始めたそうですが、お母さんからの援助は授業料だけだったそうで、
千昌夫さんは、下宿代を稼ぐため、夏は自転車で水の配達、他の季節は河原で砂利運び、といったアルバイトに明け暮れたそうですが、アルバイトで得た収入は、ほとんどが下宿代と食費に消えてしまったそうで、
そんな中、千昌夫さんは、少ない収入の中から、当時、流行していた演歌のレコードを買い、好きな音楽を聴きながら、
この苦労をただの生活費稼ぎで終わらせてはいけない、人並み以上の苦労をした自分だからこそ、当たり前の生き方ではない方法で成功する道があるはずだ
と、自分の将来について深く思いを巡らせていたのだそうです。
北海道に左官屋として出稼ぎに行っていたお父さんが他界し、お母さんが往復4時間かかる宮城県気仙沼市の工場まで働きに出る中、いつも、幼い弟の子守をしながら、お母さんの帰りを待っていたという、千昌夫(せん まさお)さんは、中学 …
千昌夫は高校2年生の時に歌手になる決意をしていた
すると、ある日、千昌夫さんは、歌手になることをひらめいたそうですが、どうすれば歌手になれるか分からず、途方に暮れていると、
高校2年生のある時、芸能週刊誌で、当時多くのヒット曲を手掛けていた作曲家・遠藤実さんの記事を目にしたそうで、遠藤実さんに弟子入りすることを決意。
ただ、家族に言うと反対されるに違いないことから、高校を中退して上京する計画を立てたそうですが・・・
旅費が問題となり、断念。
それでも、なお思案していると、修学旅行のシーズンに、修学旅行に行くという口実でお母さんからお金をもらい、家族に内緒で東京へ向かうことを思いついたのだそうです。
(もちろん、修学旅行に行くつもりはなかったそうです)
お母さんの意向で高校に進学するも、下宿代を捻出するためのアルバイトに明け暮れ、それでも、下宿代と食費を払うのがやっとという状況に、何とかこの生活から抜け出す方法がないかをいつも考えていたという、千昌夫(せん まさお)さん …
千昌夫は高校2年生の時に作曲家・遠藤実に弟子入りしていた
こうして、千昌夫さんは、高校2年生の時、修学旅行に行くという名目でお母さんからお金をもらうと、家族に内緒で上京し、当時ヒットメーカーだった作曲家・遠藤実さんの自宅を訪れたそうですが・・・
既に遠藤実さんの自宅前には、弟子入りを志願する若者が大勢いたそうで、千昌夫さんは、門前払いされてしまったそうです。
それでも、千昌夫さんは、故郷に帰れない背水の陣だったことから、諦めずに、4日間、遠藤実さんの自宅前で、遠藤実さんが会ってくれるのを待ち続けると、
ついに、4日目、その熱意が伝わり、レッスン室に招き入れてもらったそうで、舟木一夫さんの「高校三年生」を歌わせられると、その後、弟子入りを許可されたのだそうです。
(遠藤実さんは、千昌夫さんが歌手になれるか半信半疑だったそうですが、その物事に動じない性格に可能性を感じたのだそうです)
そして、当初は、歌のレッスンよりも、掃除や犬の散歩、カバン持ちといったアシスタント業務がメインだったそうですが、
千昌夫さんは、当時、人気絶頂だった舟木一夫さんらがレッスンに来るのを見る度に、
いつか自分も有名歌手になる
と、強く心に誓ったのだそうです。
高校2年生の時、下宿近くの食堂で芸能週刊誌を見ていた際、作曲家の遠藤実さんの記事が目に留まり、遠藤さんに弟子入りすることを決意するも、家族には言い出すことができず、修学旅行シーズンに内緒で上京することを思いついたという、 …
「【画像】千昌夫の若い頃は?歌手・不動産共に大成功するも破綻していた!」に続く
1966年「星影のワルツ」、1977年「北国の春」が相次いで大ヒットし、演歌界のスターに上り詰めると、歌手活動と並行して、不動産事業でも成功を収めて最盛期には2000億円規模の資産を築くも、バブル崩壊で1032億円もの負 …