1950年2月、22歳の時、「なやましブギ」でレコードデビューすると、その後、次々とヒット曲を連発して歌謡歌手として人気を博し、女優としても活動すると、
41歳の時には、日本初となる肢体不自由児(身体障害者)のための養護施設「ねむの木学園」を私財を投じて設立・運営するなど、福祉事業家としても活動した、宮城まり子(みやぎ まりこ)さん。
今回は、そんな宮城まり子さんの若い頃からのヒット曲や出演作品など経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。
「宮城まり子の生い立ちは?小5で父の事業が破綻し母が病死!小学校卒業と同時に吉本に入社していた!」からの続き
宮城まり子は21歳の時に上京し浅草の舞台に立っていた
1939年、小学校卒業と同時に、歌手を志して、弟さんとともに吉本興業に入った宮城まり子さんは、戦時中の1944年、17歳の時、大阪花月劇場で初舞台を踏むと、その後、お父さん、弟さんと共に九州に移り住んだそうで、
終戦後は、弟さんと共に九州を巡業していたそうですが、1948年、21歳の時には、上京し、浅草の舞台に立つようになったそうです。
宮城まり子は22歳の時に劇作家・菊田一夫にスカウトされて日劇の舞台に出演していた
そして、翌年の1949年、22歳の時には、コメディアンの益田喜頓さんの紹介で、浅草出身の劇作家・菊田一夫さんと知り合うと、
ボクを信じて日劇に来て欲しい
と、日劇の出演を勧められたそうで、
(当時、日劇はショービジネスのひのき舞台でした)
この言葉を信じ、日劇の舞台に出演することにすると、1949年11月には、日劇のレビュー「有頂天時代」に出演したそうですが、
主役・暁テル子さん、池真理子さんらに混じって、メインキャストとしての出演だったそうで、宮城まり子さんは、日劇の大看板に自分の名前が大きく書かれているのを見て、夢かと思うほど、信じられなかったそうです。
宮城まり子は22歳の時に「なやましブギ」でレコードデビューするも売上はパッとしなかった
そんな宮城まり子さんは、翌年の1950年1月には、「ラジオは踊る」、2月には「アメリカン・ラプソディー」、3月には「スイング・クリスタル」と毎月のように日劇の舞台に出演したそうですが、
そのかたわら、1950年2月(22歳)には、テイチクから「なやましブギ」でレコードデビューもしたそうですが、売上はパッとせず、翌年1951年には、ポリドールに移籍し、「ユーアーマイサンシャイン」「恋のサンバ」「地獄のタンゴ」など12曲を録音したそうです。
宮城まり子は25歳の時にビクター移籍第1弾「二人の天国」が草葉ひかるに取って代わられショックで自殺まで考えていた
その後、ポリドールは経営不振だったため、1952年、ビクターに移籍すると、移籍第1弾として、ビクターのゴールデンコンビ・佐伯孝夫さん作詞、佐々木俊一さん作曲の「二人の天国」をリリースする予定だったそうですが・・・
突然、草葉ひかるさんに取って代わられたのだそうです。
これには、宮城まり子さんはショックで自殺まで考えたそうですが、結果的には、この「二人の天国」は、内容に問題があるとして世間の非難を浴び、ヒットとはならなかったのだそうです。
宮城まり子が25歳の時には「あんたほんとに凄いわね」がヒットし同名映画にも出演していた
そんな中、宮城まり子さんは、1952年5月、25歳の時、ようやく、ビクター移籍後初のレコードとして、「初恋の頃なれば」をリリースすると、第2弾の「あんたほんとに凄いわね」が初のヒットを記録し、同名で映画化もされると、宮城まり子さんも出演しています。
「あんたほんとに凄いわね」
宮城まり子が26歳の時には「毒消しゃいらんかね」がロングヒットとなり一躍人気歌手の仲間入りを果たしていた
さらに、1953年4月、26歳の時には、「毒消しゃいらんかね」を発売すると、この歌は、新潟県角海浜(現在の新潟市西蒲区)の「越後の毒消し」の行商の女性をテーマとしたコミカルで親しみやすい楽曲だったことから、ロングヒットとなり、
宮城まり子さんは、同年12月31日の「第5回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすなど、一躍人気歌手の仲間入りを果たしたのでした。
ちなみに、宮城まり子さんは、当時、毎日、ビクターに通っていたことから、ビクターの守衛さんとも仲良くなっていたそうですが、デビューまでの苦難の道のりを知り、応援してくれた、この守衛さんの名前をずっと忘れなかったそうです。
宮城まり子が28歳の時には「ガード下の靴みがき」が大ヒットしていた
そんな宮城まり子さんは、1955年、28歳の時には、「ガード下の靴みがき」をリリースすると、たちまち大ヒット。
同年末、紅白歌合戦で歌唱すると、この曲は瞬く間に日本中に広まり、宮城まり子さんは人気歌手として不動の地位を築いたのでした。
「ガード下の靴みがき」
実は、この年の夏、ビクター文芸部の磯部さんというディレクターのデスクで遊んでいた際、足元のゴミ箱に原稿用紙が丸めて捨ててあることに気付き、レコード会社の原稿用紙なので詩が書いてあるはずだと思い、
書いた人も書かれた詩もかわいそうだと思って、原稿用紙を広げてシワを伸ばすと、そこには、「ガード下の靴みがき」と書かれてあったそうで、
宮城まり子さんは磯部さんのところに飛んでいき、この歌を自分に歌わせてくれるように懇願し、追いかけ回して頼み込み、ようやく、磯部さんの了承を取り付けてのリリースとなっていたそうで、
宮城まり子さんは、この時のことを、
当時、有楽町のガード下や銀座では靴磨きの少年や花売の少女たちをちょくちょく見かけました。私はありったけの心を込めて歌いました
と、語っています。
また、宮城まり子さんは、その後も、「納豆うりの唄」「てんてん娘」「夕刊小僧」など、ヒット曲を連発しています。
(「納豆うりの唄」は、実弟の八郎さんが、「宮城秀雄」名義で作曲しています)
宮城まり子が30代の時は日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」で声の出演をするほか女優業にも進出していた
31歳の時には日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」で声の出演
また、宮城まり子さんは、1958年、31歳の時には、日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」で声優として、 白娘役を演じています。
「白蛇伝」
30代の時には女優業にも進出
そして、その後は、本格的に女優業にも進出し、
- 1958年(31歳)「オンボロ人生」
- 1958年(31歳)「弥次㐂夛道中記」
- 1958年(31歳)「太鼓たゝいて笛吹いて」
)「太鼓たゝいて笛吹いて」 - 1959年(32歳)「グラマ島の誘惑」
- 1959年(32歳)「まり子自叙伝 花咲く星座」
- 1961年(34歳)「黒い十人の女」
- 1962年(35歳)「ちんじゃらじゃら物語」
「ちんじゃらじゃら物語」 - 1964年(37歳)「続・拝啓天皇陛下様」
などの映画に出演しています。
宮城まり子は41歳の時に「ねむの木学園」を設立し障害者福祉の先駆者として活動していた
また、宮城まり子さんは、1968年、41歳の時には、女優業のかたわら、日本初となる肢体不自由児(身体障害者)のための養護施設「ねむの木学園」を設立しているのですが、
演技の勉強のために訪れた病院で、障害のため学校に通えない子供たちがいることを知り、私財を投じて設立したそうで、子供たちが大人になっても自立して暮らせる仕組みを作ったのだそうです。
右端が宮城まり子さん。
宮城まり子が40代~50代の頃は映画監督としても活動
そんな宮城まり子さんは、映画監督としても、
- 1974年(47歳)「ねむの木の詩」
- 1977年(50歳)「ねむの木の詩がきこえる」
- 1986年(59歳)「HELLO KIDS!がんばれ子どもたち」
を、制作しています。
宮城まり子の死因は悪性リンパ腫
宮城まり子さんは、2019年4月、92歳の時、肺炎のため入院すると、以降、体調が思わしくなく、入退院を繰り返しながら、仕事に打ち込んでいたそうですが、
2020年2月初め、急激に体調が悪化し、掛川市内の総合病院に緊急入院すると、検査の結果、間質性肺炎であることが判明したそうです。
実は、宮城まり子さんは、2000年頃に悪性リンパ腫を患っていたそうで、その再発が疑われるとのことで、かかりつけだった東京の医療機関に転院し、抗ガン剤の投与などの治療が行われたそうですが・・・
2020年3月21日、午前6時55分、悪性リンパ腫により、93歳で他界されたのでした。
ちなみに、3月27日には、「ねむの木学園」の子供たちと教職員のみで学園葬が営まれたそうですが、学園葬は入所者約70人が自ら準備し、会の名称を「おかあさんおかえりなさい、いってらっしゃい」と名付けたそうで、
代表の子供からは、
おかあさんずっと待ってたよ。まり子先生の「やさしいことはつよいのよ」の言葉を忘れず頑張っていきます
との言葉が贈られたといいます。
「宮城まり子の夫(内縁)吉行淳之介との馴れ初めは?35年間事実婚だった!子供は?」に続く
1957年、30歳の時、作家の吉行淳之介さんと知り合うと、1960年頃から同棲生活を始めたという、宮城まり子(みやぎ まりこ)さん。 ただ、吉行淳之介さんには妻子がおり、奥さんが離婚に応じなかったため、吉行淳之介さんが他 …