1957年、30歳の時、作家の吉行淳之介さんと知り合うと、1960年頃から同棲生活を始めたという、宮城まり子(みやぎ まりこ)さん。
ただ、吉行淳之介さんには妻子がおり、奥さんが離婚に応じなかったため、吉行淳之介さんが他界するまでの35年間、籍を入れることができず、内縁関係にあったといいます。
今回は、そんな宮城まり子さんの、吉行淳之介さんとの馴れ初め、同棲に至るまでの経緯、同棲後の関係、子供についてご紹介します。
「宮城まり子の若い頃は?デビューからのヒット曲や出演作品など経歴を時系列まとめ!」からの続き
宮城まり子と吉行淳之介の馴れ初めは?
宮城まり子さんは、作家の吉行淳之介さんと、(吉行淳之介さんの死まで)35年という長い間に渡って、事実婚の関係にあったといいます。
実は、宮城まり子さんは、1957年、30歳の時、吉行淳之介さんと女性誌が企画した雑誌の鼎談(ていだん)の席で知り合うと、吉行淳之介さんと目が合った瞬間、背中を雷で打たれたような戦慄が走ったそうで、30歳にして初めての恋だったといいます。
すると、それからしばらくして、吉行淳之介さんから、
今、病気で入院しているから、見舞いに来てくれ
と、手紙が来たそうで、
宮城まり子さんは、(手紙に「見舞いの品を持って」と書かれていたことから)お見舞いの品を持って病院を訪れると、このことがきっかけとなり、2人は交際を開始したのだそうです。
(当時、宮城まり子さんは、NHK紅白歌合戦に出場する国民的人気歌手、吉行淳之介さんも、2年前の1955年に「驟雨」で芥川賞を受賞し、”第三の新人”と呼ばれる新進気鋭の人気作家でした)
宮城まり子は吉行淳之介の妻との三角関係に悩み、服毒自殺を図ったり、妊娠した子供を中絶していた
ただ、宮城まり子さんは、吉行淳之介さんを好きになってから、吉行淳之介さんに妻子がいることを知ったそうで、奥さんが離婚に応じてくれなかったことから、奥さんと三角関係となり、
宮城まり子さんが、夜更けに裸足になって吉行家の回りを巡り歩いたり、奥さんの方からも無言電話をかけ続けられたりと、奥さんとは息が詰まるような争いを続けていたそうで、
宮城まり子さんは、吉行淳之介さんとの関係に悩み、服毒自殺を図ったり、身ごもった吉行淳之介さんとの子供を中絶したこともあったといいます。
ちなみに、宮城まり子さんの演技面での指南役だった演出家の菊田一夫さんは、
まり子は昔のいじらしい女学生のような女の子
三十いくつにもなって、生まれて初めて恋をして、その相手が奥さんがいる男性で、そのために身もよじれるほどの切ない思いを味わっているとは、何という馬鹿なことをやる奴だ、と私は思ったが、それを叱る資格は私にもない
と、語っています。
宮城まり子は吉行淳之介との関係を清算するため欧米に旅立つも最愛の弟の訃報で泣き暮らしていた
そして、ついには、そんな状況に嫌気が差し、吉行淳之介さんとの関係を清算する決意をして、ミュージカルの勉強のため、一人でヨーロッパに向かったそうですが・・・
パリにいた時、お父さんから国際電話があり、実弟で作曲家の八郎さんが交通事故で亡くなったこと知ったそうで、宮城まり子さんは、亡き八郎さんを思い、毎日、泣き暮らしたのだそうです。
(宮城まり子さんと弟の八郎さんは、売れない時代から苦楽を共にしており、八郎さんは、作曲家として宮城まり子さんのヒット曲を支えていたそうで、「二人でミュージカルを」と誓い合い、宮城まり子さんにミュージカルの本場への留学を強く勧めてくれたのも八郎さんだったそうです)
宮城まり子はヨーロッパから帰国後に吉行淳之介と同棲生活を開始していた
そんな中、吉行淳之介さんから、
帰っておいで
と、手紙が届いたそうで、
(吉行淳之介さんからは、それまでにも、再三、帰って来るよう手紙が送られてきていたとも)
宮城まり子さんは帰国すると、吉行淳之介さんは、家を出て、宮城まり子さんの家で同棲生活を始めることとなったのだそうです。(1960年頃)
宮城まり子と吉行淳之介の同棲後の関係は良好だった
同棲後、宮城まり子さんは、家に帰って来ると、吉行淳之介さんが原稿を書いている書斎まで筒抜けるような大きな声で、
ただいま
と、言い、
そのまま、
淳ちゃん
と、呼びながら、書斎に飛び込んだそうで、
以降、そのような毎日が続いたそうですが、
吉行淳之介さんも、宮城まり子さんが、デート中、夕日を見ながら、
あら、真っ赤な夕日
と、言い、その場でくるっと一回転する天衣無縫な明るさや、子供のように無邪気なところに惚れ込んでいたといいます。
(宮城まり子さんは、子供の頃、子役として各地を転々とし、かわいらしい妖精のような役柄を舞台の上で何度も演じていたことから、それがそのまま板についたのか、大人になってからも、何気ない仕草に子供っぽさがにじみ出ることがあったのだそうです)
宮城まり子は肝臓ガンに冒された吉行淳之介を献身的に看病していた
また、後に、吉行淳之介さんが肝臓ガンに冒されると、宮城まり子さんは、最後の2ヶ月間はつきっきりで看病をしたそうですが、その献身ぶりは、
これほど精魂込めて看病する人を見たことがない
と、医師や看護師が驚くほどだったといいます。
そして、宮城まり子さんの吉行淳之介さんへの思いは、吉行淳之介さんが他界してからも変わらず、2017年、「女性自身」の取材では、
記者が
ペンダント、素敵ですね
と、言うと、
宮城まり子さんは、そのペンダントのトップにある真珠を慈しむように手に取り、
淳之介さんがプレゼントしてくださったの。あの人、あんまりお金もってないのに、銀座のミキモトで特別に作ったんですって
と、微笑んだといいます。
宮城まり子に子供がいない理由
そんな宮城まり子さんと吉行淳之介さんとの間には子供はいません。
ただ、宮城まり子さんによると、1968年に肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立する際、当時はまだ福祉に対して世間の関心が薄く、多くの人に、歌手を続けたほうがいいと反対される中、誰よりも応援してくれたのが、吉行淳之介さんだったそうで、
この施設の名前「ねむの木学園」の名付け親も吉行淳之介さんで、吉行淳之介さんは、学園の理事も引き受けてくれたそうで、宮城まり子さんは、この「ねむの木学園」で育った子供たちが吉行淳之介さんとの子供だと思っているそうです。
また、宮城まり子さんは、
90歳になったいま振り返ってみても、淳ちゃんと私はとてもいいコンビでした。ずっと結婚という形を望んでいましたけれども、かなわなければ、愛だけでいいと思い続けていました。淳ちゃんの子供、もちろん欲しかった。ただ・・・
(吉行淳之介さんの正妻や娘、母親、妹たちへの遠慮もあり)できなかったのではなく、産まなかったのです
もし“淳ちゃんの妻”になっていたら、ねむの木学園は続けられなかったと思います。もし淳ちゃんの子供を産んでいたら、私たちのベタベタしない、兄妹みたいな、互いを思いやる関係は成り立たなかったでしょう
(私は)淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのはねむの木の子ども
とも、語っています。
1950年、「なやましブギ」で歌手デビューすると、以降、「あんたほんとに凄いわね」「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「納豆うりの唄」など、次々とヒットを連発し、NHK紅白歌合戦にも出場した、宮城まり子(みやぎ …