大学在学中より小説を発表し始めると、結核で入院中だった1954年、30歳の時、「驟雨」で芥川賞を受賞し、その後も、「鳥獣虫魚」「娼婦の部屋」「砂の上の植物群」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮まで」などの作品を次々と発表した、吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)さん。

今回は、そんな吉行淳之介さんの、若い頃からの作品や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。

吉行淳之介

「吉行淳之介の生い立ちは?高校時代には腸チフスで5ヶ月隔離病棟生活だった!」からの続き

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吉行淳之介は20代の時に「原色の街」「谷間」「ある脱出」と3度も芥川賞の候補になっていた

大学時代には同人誌「葦」「世代」「新思潮」などで小説を発表していた

吉行淳之介さんは、大学時代から、同人雑誌「葦(あし)」を創刊し、詩や小説を発表し始めるも、「葦」は3号で終わってしまったそうですが、

その後、中村稔さんや日高晋さんが所属する同人雑誌「世代」や、中井英夫さんらが所属する(第14次)「新思潮」で活動したそうです。

23歳の時に大学を中退し「新太陽社」に入社していた

そんな吉行淳之介さんは、大学の授業にあまり出席せず、「新太陽社」という出版社で編集のアルバイトをしていたそうですが、

アルバイト先の社長の勧めで、1947年の秋、23歳の時に、大学を中退し、「新太陽社」に入社して編集者になったそうです。

また、編集者としての仕事は忙しかったそうですが、毎年、一作のペースで、「世代」や「新思潮」に小説を発表していたそうです。

27歳と28歳の時に「原色の街」と「谷間」が芥川賞の候補になっていた

そんな中、吉行淳之介さんは、1951年、27歳の時、「世代」に発表した「原色の街」が芥川賞候補に上がると、翌年の1952年7月、28歳の時にも、「三田文学」に発表した「谷間」が芥川賞の候補となるなど、徐々に、新進作家として、文壇でも注目されるようになっていくのですが、

この年(1952年)の11月には、左肺尖部に空洞が見つかり、結核と診断されたのだそうです。

28歳の時に肺結核にかかり会社を退職して療養生活を送っていた

それでも、翌年の1953年1月には、「ある脱出」という作品が、またまた芥川賞候補に上がり、文壇でもさらに評価を高めたそうですが・・・

結核は悪化する一方で、吉行淳之介さんは、同年(1953年)春、会社を退職して、千葉県佐原市の病院で療養生活を始めると、1953年11月には、国立療養所清瀬病院に入院し、1954年1月には、肺の切除手術を受けたのだそうです。

ちなみに、吉行淳之介さんは、著書「私の文学放浪」で、その時のことについて、

手術は無事済み、回復も順調だったが、退院間際に不意に高熱が出た。九度以上の熱が一ヵ月以上つづき、熱が下がってからも激しい咳と痰がつづいた。

二十四時間、絶え間なく咳つづける日もあり、痰は痰コップに何杯も出た。食事は胃におさまらず、しばしば吐いて、ひどく痩せた。

肺結核の再発を疑われたが、さいわい持病のゼンソクの悪化であった。もっとも、ゼンソクは発熱をともなわないものなので、九度の熱の原因は不明である。

ただ困ったことに、結核専門病院でゼンソクを起こすのは、患者としての作法にそむくものであるらしく、私のゼンソクは冷淡に扱われた。

激しい咳と痰は二ヵ月以上もつづき、見兼ねた看護婦が酸素吸入をしてくれた。この時期に見舞にきてくれた友人たちは、私のことを回復不能とみたようである。しかし私自身は、すこしも死ぬことについては考えなかった。ゼンソクでは、滅多に死にはしないことを知っていた。

と、手術は成功したものの、結核ではなく、持病の喘息(ぜんそく)が悪化したことを綴っています。

吉行淳之介
「私の文学放浪」

(療養生活を送る中、吉行淳之介さんは、生計を立てるため、友人で小説家の庄野潤三さんの勧めでラジオ放送の台本を書いていたそうです)

吉行淳之介は30歳の時に「驟雨」で芥川賞を受賞していた

そんな中、翌年の1954年7月には、ついに、「文學界」2月号に発表した「驟雨」が芥川賞を受賞しているのですが、

実は、吉行淳之介さんは、1953年11月、国立療養所清瀬病院に入院してから1954年1月の手術までの間に、短編「治療」と、以前から書いていたという「驟雨」の2作を書き上げていたのだそうです。

吉行淳之介
「驟雨」

(吉行淳之介さんが千葉で療養を始めた頃、結核の新しい手術方法として、肺切除の手術が話題となっていたそうで、吉行淳之介さんは、情報収集しながら、この手術を受けるべきか考えていたそうですが、そんな中、遠縁にあたる清瀬病院の島村喜久治院長から「肺に空洞を持っているのは文化的ではない、はやく切り取りなさい」という旨の手紙が届いたそうで、そろそろかなと思い、手術を受ける決心をして、国立療養所清瀬病院に入院したのだそうです)

吉行淳之介は30代から70代に「鳥獣虫魚」「娼婦の部屋」「砂の上の植物群」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮まで」などを発表

そんな吉行淳之介さんは、ほかに生計を立てる手段がなかったため、「驟雨」での芥川賞受賞をきっかけに、作家生活に入ったそうで、

その後は、

などの小説のほか、

などのエッセイも数多く手掛けています。

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吉行淳之介の死因は肝臓ガン

吉行淳之介さんは、晩年も、数々の病気を克服しながら執筆を続けていたそうですが、1994年、肝臓ガンにより、70歳で他界されています。

ちなみに、お母さんの吉行あぐりさんは、吉行淳之介さんの棺(ひつぎ)に寄り添い、一生懸命話しかけていたそうで、吉行淳之介さんの死去から3年後に出版された、著書「母・あぐりの淳への手紙」の中で、

私より早くいなくなるなんて、私は涙がとまりません

と、その悲しみを綴っています。

「吉行淳之介は妻と離婚できず不倫相手と生涯に渡って連れ添っていた!」に続く

吉行淳之介

お読みいただきありがとうございました

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