東京大学英文科中退後、編集者を経て、同人誌「葦」「世代」「新思潮」などに参加すると、安岡章太郎さん、遠藤周作さんらとともに”第三の新人”として活躍し、1954年には、「驟雨」で芥川賞を受賞した、吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)さん。
そんな吉行淳之介さんは、高校生(16歳)の時、腸チフスにかかり、高熱にうなされて生死をさまよい、5ヶ月間にも渡る隔離病棟での入院生活を余儀なくされたそうですが、
退院後、学校をしばらく休学中、小説を読み漁るようになると、やがては、自分でも小説を書き始めたといいます。
今回は、吉行淳之介さんの、生い立ち(幼少期から東京帝国大学進学まで)をご紹介します。
吉行淳之介のプロフィール
吉行淳之介さんは、1924年4月13日生まれ、
岡山県岡山市の出身、
身長170センチ、
学歴は、
番町小学校
⇒麻布中学校
⇒旧制静岡高校(現・静岡大学)文科丙類(文系フランス語クラス)
⇒東京帝国大学(現・東京大学)中退
ちなみに、吉行淳之介は本名で、
父親は、作家の吉行エイスケさん
母親は、美容師の吉行あぐりさん
長妹は、女優の吉行和子さん
次妹は、作家の吉行理恵さん
と、著名人一家です。
吉行淳之介は2歳まで祖父母のもとで育てられていた
吉行淳之介さんは、作家の吉行エイスケさんと美容師の吉行あぐりさんのもと、岡山市で、3人きょうだい(妹2人)の長男として誕生したそうですが、
生まれてまもなく、お父さんの吉行エイスケさんは、作家仲間と活動するため、妻子をおいて、一人で東京へ行ってしまい、お母さんの吉行あぐりさんも、吉行エイスケさんを追って上京したそうで、
吉行淳之介さんは祖父母(吉行エイスケさんの両親)に預けられ、2歳まで祖父母に育てられたそうです。
(吉行エイスケさんを岡山に連れ戻したい両親の願いにより、吉行あぐりさんは無理やり上京させられたという話も)
吉行淳之介は16歳の時に腸チフスにより隔離病棟での5ヶ月間の入院を余儀なくされていた
そんな吉行淳之介さんは、2歳の時には、両親と東京で暮らすようになると、その後、番町小学校、麻布中学校へと進学したそうですが、1940年、16歳の時に、腸チフスにかかり、6月から11月の5ヶ月近く、隔離病棟での入院を余儀なくされたそうです。
(腸チフスとは、サルモネラの一種であるチフス菌によって引き起こされる感染症で、汚染された飲み水や食物などから感染して高熱が続き、重症化すると死に至ることもあるそうです)
ちなみに、吉行淳之介さんには、病気のほかに恐れていることがもう一つあったそうで、それは、破天荒なお父さん・吉行エイスケさんが、突然、病室にやってきてき、体力をつけさせようと口の中に肉の塊(かたまり)を押し込まれるのではないか、ということだったそうです。
(当時、「腸チフス」は、回復期がとても重要と考えられており、「米粒ひとつで腸が破れ死ぬ」と言われていたそうで、食べ物に注意するほか、心身ともに安静にしていなければならなかったそうです)
吉行淳之介が16歳の時には父・吉行エイスケが狭心症で急死していた
そんな中、1940年7月、お父さんの吉行エイスケさんが狭心症(心臓発作)により34歳の若さで急死したそうですが、
吉行淳之介さんは、著書「軽薄のすすめ」で、
父が死んだときに、正直なところホッとする気持も強かった
かなり大きくなるまで父親の正体が分からなかった。父親とは、時折家に戻ってきて、わけも分からず怒鳴り、またいなくなる迷惑な存在であった。この気持は、(旧制)中学5年生(16歳)になっても同じであった記憶がある。
と、綴っています。
(ちなみに、お父さんの死は、病気が重かった吉行淳之介さんには、ショックが大きいと心配した家族により、すぐには知らされなかったそうで、吉行淳之介さんには、退院後(父親の死から数カ月後)に伝えられたといいます)
吉行淳之介は16歳の時に退院すると、しばらくは休学して小説を読み漁っていた
その後、吉行淳之介さんは、無事回復して退院したそうですが、しばらくの間は休学していたそうで、この期間中、お母さんが、「美しい暦」(石坂洋次郎著)や「朝の霧」(阿部知二著)などの小説を買ってくれたそうで、これをきっかけにたくさんの小説を読むようになったそうです。
(吉行淳之介さんは、小説のほか詩も読み、特に、詩人・萩原朔太郎の作品を愛読したそうです)
吉行淳之介は19歳頃から小説を書き始めていた
そして、翌年の1941年4月、17歳の時に復学すると、1942年、18歳の時には、麻布中学校を無事に卒業し、旧制・静岡高校(現在の静岡大学の文科丙類(文系フランス語クラス))に進学したそうですが、
この頃は、太平洋戦争が激化し、学校生活も軍事一色になっていったことから、これを嫌った吉行淳之介さんは、1943年、2年生に進級時、心臓脚気(かっけ)と偽り、1年間休学したそうで、この頃あたりから、文学に関心を持つようになり、自分でも小説を書き始めたそうです。
吉行淳之介は20歳の時には召集されるも気管支炎が判明し帰郷していた
そんな吉行淳之介さんも、1944年、20歳の時には復学すると、徴兵検査を受けさせられて甲種合格となり、召集されたそうですが、
入営3日目には、気管支喘息と診断され、4日目には帰郷したそうです。
吉行淳之介は21歳で東京帝国大学に進学するも戦争で学問どころではなかった
そして、1945年4月、21歳の時には、東京帝国大学(現在の東京大学)に進学したそうですが、5月25日には、空襲で自宅が焼失するほか、再び徴兵検査を受けさせられて甲種合格となるなど、学問どころではなかったそうです。
ただ、召集前に終戦を迎えたことから、吉行淳之介さんは出征しなくてよくなったのだそうです。
「吉行淳之介の若い頃は?作家デビューからの作品や経歴を時系列まとめ!」に続く
大学在学中より小説を発表し始めると、結核で入院中だった1954年、30歳の時、「驟雨」で芥川賞を受賞し、その後も、「鳥獣虫魚」「娼婦の部屋」「砂の上の植物群」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮まで」などの作品を次々と発表し …