1920年代より、ダダイズム、モダニズム、新興芸術派の作家として活動するも、1940年、34歳の若さで他界された、吉行エイスケ(よしゆき えいすけ)さん。
今回は、そんな吉行エイスケさんの、簡単なプロフィール、代表作、あぐりさんとの結婚ほか、若い頃からの奔放過ぎる生涯を、生い立ちを交えて時系列でまとめてみました。
吉行エイスケのプロフィール
吉行エイスケさんは、1906年5月10日生まれ、
岡山県御津郡金川町(現・岡山市北区御津金川)の出身、
学歴は、
旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)中退
ちなみに、本名は、「吉行榮助」(読み方同じ)ですが、「榮助」という字を嫌い、勝手にカタカナに変えたのだそうです。
(小野クララ、Yなどの名義で執筆していたこともあったそうです)
また、
長男は、作家の吉行淳之介さん、
長女は、女優の吉行和子さん、
次女は、小説家で詩人の吉行理恵さん、
と、著名人一家です。
吉行エイスケは旧制中学校時代からアナキズムと文学に傾倒して奔放な生活を送り、中退し詩作に励んでいた
吉行エイスケさんは、土木請負業(吉行組)を営むお父さんの吉行澤太郎さんとお母さんの盛代さんのもと、長男として誕生すると、旧制第一岡山中学校に進学したそうですが、
アナキズムと文学に傾倒し、友人を東京まで連れて行き、芸者と人力車を一日借り切って乗り回したりと、やりたい放題だったそうで、
(アナキズムとは、国家や宗教など一切の政治的・社会的な権力を否定し、個人の完全な自由と独立が重視される社会を運営していくことを理想とする思想のことをいうそうです)
挙句の果て、1922年、4年生(16歳)の時には中退し、その後は、詩作に励んだそうです。
(一時、東京の目白中学校に在籍していたこともあったそうですが、この時期のことは不明です)
吉行エイスケは16歳の時に15歳の松本安久利(あぐり)と結婚させられていた
そんな吉行エイスケさんは、1923年、16歳の時には、息子の素行に手を焼いたお父さんにより、「結婚して子供でも生まれれば、少しは落ち着くだろう」と、
近所の知り合いの娘で、まだ、岡山高等女学校在学中の15歳の少女だった松本安久利(あぐり)さんと結婚させられたそうですが・・・
吉行エイスケは17歳の時に長男が誕生するも奔放な生活は変わらなかった
翌年の1924年、17歳の時、長男(作家の吉行淳之介さん)が誕生すると、すぐに、妻子を岡山に置いて一人でさっさと東京へ行ってしまったそうで、
その後も、不倫はもちろん、不倫相手と自分の子供を一緒に旅行に連れて行ったりするなど、吉行エイスケさんの奔放な生活は変わらなかったのだそうです。
ちなみに、この頃の吉行エイスケさんについて、長女の吉行和子さんは、2021年、日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」の中で、
エイスケが何をしていたのか、すべては分からないが、一つには「売恥醜文」(1924年)という名の雑誌を作って、各地の書店に持ち込んで置いてもらっていたようだ。
ダダイストの作家と呼ばれた父の文章は前衛的でトンガっていて、気楽な読み物とは少し違うものだった。
と、綴っています。
(「ダダイスト」とは、既成の秩序や常識に対する、否定・攻撃・破壊を思想とする人のことを言うそうで、その思想のことを「ダダイズム」と言うそうです)
吉行エイスケは27歳の時に筆を折り株式売買に手を出すも失敗し以降も働かなかった
その後、時代が太平洋戦争に向かっていく中、徐々にダダイズムの活動が許される場が減少していき(自分の才能に見切りをつけたという話も)、
1934年、27歳の時には、ついに、筆を折り、その後は、兜町で株式売買の会社を興したそうですが、こちらも才覚はなかったようで、八方に借金を作ったと言われています。
そんな中、1935年、29歳の時、2人目の子供(長女=女優の吉行和子さん)が誕生すると、吉行エイスケさんのお母さんは、(長男の吉行淳之介さんが誕生してから11年で)今度こそ、家族に”和”をもたらす子という願いを込めて、「和子」と名付けたそうですが・・・
吉行エイスケさんの家族や生活を顧みない性格は変わらず、また、相変わらず、働こうとはしなかったのだそうです。
(吉行エイスケさんは、この頃、お父さんから市ヶ谷駅前に100坪の土地を買い与えられたそうですが、これをもってお父さんに縁を切られたと言われています)
吉行エイスケの死因は狭心症(34歳の時に急死)
そして、1939年には、3人目の子供(次女=作家の吉行理恵さん)が誕生するのですが、翌年の1940年には、狭心症(心臓発作)で34歳の若さで急死したのでした。
ちなみに、吉行エイスケさんは、身の上をほとんど食いつぶしていたそうで、生活は、美容院を経営していた妻のあぐりさんに頼り、家屋敷は二重に抵当に入っていたと言われています)
吉行エイスケの主な作品(代表作)は青空文庫で閲覧可能
それでは、ここで、吉行エイスケさんの主な作品(代表作)をご紹介します。
- スポールティフな娼婦
- バルザックの寝巻姿
- 女百貨店
- 職業婦人気質
- 新種族ノラ
- 戦争のファンタジイ
- 大阪万華鏡
- 地図に出てくる男女
- 東京ロマンティック恋愛記
- 飛行機から墜ちるまで
- 孟買挿話
- 恋の一杯売
ちなみに、吉行エイスケさんの作品は、現在、「青空文庫」で無料で読むことができます。
また、1997年、吉行エイスケさんが27歳で筆を絶つまでの詩と小説が収められた「吉行エイスケ 作品と世界」(吉行エイスケさんの長女・吉行和子さんが監修)も刊行されており、アマゾンで購入可能です。
「吉行エイスケ 作品と世界」
さらに、吉行エイスケさんは、
- 色気
- 対象
- 恋
- 支那そば屋
- なだかな夜
などの詩も書いており、こちらは、長男の吉行淳之介さんの著書「詩とダダと私と」に収められています。
「詩とダダと私と」
ただ、作品の評価は当時も現在も高くなく、吉行エイスケさんの3人の子供たち、吉行淳之介さん、吉行和子さん、吉行理恵さんは、口を揃えて、小説を最後まで読み通せたことがないと語っており、
吉行淳之介さんは、1959年、自身の著書の中で、
僕は彼の作品に関しては否定的である
二冊の創作集に収められた四十六の短篇の中、一篇も末尾まで読み通したものがない。決心して読みはじめたことは幾度かあるのだが、
『場末のスリッパを穿いた狭隘な街、人々は踵の無い女靴のなかに棲んでいる。この物質的な猥雑な色彩にまみれた暁方の界隈が、夜半の汚れたシュミーズに無恥なハッピーコートをつける。朝刊がH百貨店主の自殺を報道する。そのデパートメントストアの鎧戸が、新聞売り子の銀鈴の背後で戞と音を立てて』というような文章を読みはじめると、すぐに辛い気持になって書物を閉じてしまう。
流行遅れになったニュールックの華かな衣装を眺めている気持だ。デザインが華かなだけに、味気なさも大きい。そして、その気持の中に、創作者が肉親であるという気分が少々混る。
と、散々にこき下ろしています。
15歳の時に作家の吉行エイスケさんと結婚すると、その後、美容院を開業し、32歳で吉行エイスケさんと死別後は、吉行淳之介さん、吉行和子さん、吉行理恵さんの3人の子供を女手ひとつで育て上げ、98歳まで現役美容師を続けたという …