80歳代半ばとなった現在も、現役で活躍を続けられている、吉行和子(よしゆき かずこ)さんですが、今回は、そんな吉行さんの、著名なご家族についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

吉行さんは、1935年8月9日生まれ、
東京府(現・東京都)のご出身、

身長158センチ、

血液型はB型、

学歴は、
女子学院中学校
⇒女子学院高等学校卒業

趣味は、
音楽観賞、オペラ観賞、俳句、海外旅行、 

特技は、
手芸、パッチワーク、編物、

ちなみに、「吉行和子」は本名です。

父親は作家の吉行エイスケ

吉行さんのお父さんは、作家の吉行エイスケさんです。

エイスケさんは、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)在学時、アナキズムに傾倒し、1922年、4年の時に中退すると、詩作に励まれるのですが、

(※アナキズムとは、国家を望ましくなく不必要で有害なものであるという考え)

大変な不良だったため、困り果てた親が、結婚でもしたら落ち着くだろうと、近所で知り合いの娘をもらうことにし、翌年の1923年、16歳の時、松本安久利(まつもと あぐり)さん(15歳)と結婚。

その後、エイスケさんは、上京し、「ダダイスム」を発行すると、1926年には、新居格さんらと「虚無思想」を主宰して新興芸術派の旗手と目されるのですが、太平洋戦争へと向かう流れの中、徐々にその活躍を許される場は減っていき、ついに、1934年には文筆活動を辞め、株式投資を生業に。

(※ダダイスムとは、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想)

ただ、株式の才覚はなかったうえ、ダダイスムを実践するように破天荒だったことから、身上をほぼ食いつぶし、1940年、34歳の時、「狭心症」で急死されています。

(家屋敷は二重に抵当に入っていたうえ、生活資金のほとんどを妻の安久利さんに頼っていたそうです)

母親は吉行あぐり

そして、そんなエイスケさんを支えた妻の安久利(あぐり)さんが、吉行さんのお母さんで、1997年のNHK朝の連続小説「あぐり」のモデルとなられた方なのですが、

あぐりさんは、お父さんの死後、お母さんが騙されて財産を失ったことから、1923年、15歳で、吉行エイスケさんのもとへ嫁に出されると、その後、日本の美容師の草分け・山野千枝子さんのもと、住み込みで2年間修行。

1929年には独立して、「山の手美容院」を開店されると、戦後の1952年には、「吉行あぐり美容室」を開店。90歳を過ぎても、馴染みの客限定として美容師をされていたそうです。


吉行あぐりさん。

ちなみに、あぐりさんは、2003年、96歳の時に、「脳梗塞」で倒れ、入院されているのですが、リハビリの末、身の回りのことは一通りこなせるほど回復。

その後、娘の吉行さんらに介護されながら、2015年、107歳で天寿を全うされています。

(あぐりさんは、1940年にご主人のエイスケさんと死別された後は、1949年に別の男性と再婚されているのですが、1997年には再婚相手とも死別。その後、吉行姓に戻されています)

兄は小説家の吉行淳之介

吉行さんは、3人兄妹なのですが、お兄さんは、作家の吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)さんです。


吉行淳之介さん。

淳之介さんは、1952年、「原色の街」が芥川賞候補になると、その後も、「谷間」「ある脱出」が芥川賞候補に上がり、

1954年、ついに、「驟雨(しゅうう)」「第31回芥川賞」を受賞されています。

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妹は詩人・小説家の吉行理恵

そして、妹さんは、詩人の吉行理恵(よしゆき りえ)さんです。


吉行理恵さん。

理恵さんは、お父さんやお兄さんの影響を受け、早くから文筆活動に目覚めると、1968年、詩集「夢のなかで」「第8回田村俊子賞」を受賞。

さらに、その後、小説を書くようになると、1981年には、小説「小さな貴婦人」で、上期「芥川賞」を受賞されているのですが、

(兄妹で芥川賞を受賞したのは初めてだったそうです)

2006年、「甲状腺ガン」のため、66歳で他界されています。

(生涯独身で、メディアにもあまり出られなかったそうです)

さて、いかがでしたでしょうか。

兄と妹が「芥川賞」を受賞し、自身も俳人、エッセイスト、女優と才能豊かな3兄妹ですが、

吉行さんによると、

わが家の連中は話し合うことがほとんどなかった。だからそれぞれが書いたものであとから知ることが多い。

と、家族のだんらんはなく、それぞれが距離を保って接していたそうで、かなり、特殊な関係だったようです。

「吉行和子の生い立ちは?幼少期は病弱で裏方志望だった!」に続く

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