1954年、19歳で劇団「民藝」に入ると、1957年、22歳の時には、舞台「アンネの日記」で主人公の役が巡ってきて、華やかな女優デビューを果たされた、吉行和子(よしゆき かずこ)さんですが、その後は、トントン拍子という訳にはいきませんでした。

「吉行和子の生い立ちは?幼少期は病弱で裏方志望だった!」からの続き

Sponsored Link

初舞台で女優を辞めるつもりだった

1957年、22歳の時、舞台「アンネの日記」で、主演女優の体調不良から、代役の主演で女優デビューを飾った吉行さんですが、実は、自分の中では、楽しいと感じたことは一度もなかったそうです。

というのも、自分が主人公のアンネとして舞台に立っていることを、観客は嫌がっているのではないかと思えて仕方がなく、場違いな感じがしていたというのです。

それでも、やる以上は一生懸命やろうと、責任感だけでやっていたそうで、この公演が終わったら、役者はもうやらなくていい、と思われていたそうですが・・・

旅公演のある夜、寝ていると、ある先輩が、「彼女は体が弱いし、引っ込み思案だから続かないでしょう」と言っている声が聞こえてきたそうで、

そう言われると、すごく悔しくなり、

そんなこと言うなら、よしやってやるぞ!

と、それから、女優を続けることになったのだそうです。

義父の娘の存在に自立心を促される

ただ、吉行さんには、もっと早くから、自分の道を見つけたいという気持ちは芽生えていたそうです。

それは、吉行さんが14歳の時のこと、お母さんが42歳で再婚され、義父とその連れ子(娘)との新しい生活が始まったのですが、

ある夏の夜、吉行さん、妹の理恵さん、義理の妹の3人で部屋で寝ていた時のこと、なかなか寝付けなかった吉行さんは、義父が部屋に入ってきて、(掛け布団を剥いで寝ていた)3人のうち、自分の娘にだけ布団をかけて出ていったのを見てしまったそうで、

義父はいい人で、義理の妹にももちろん罪はないのですが、その光景は、吉行さんの記憶に鮮明に残り、以来、

二人に心を全部開くわけにはいかない、早くこの家を出たい。

という気持ちが強くなっていたのでした。

劇団経営の厳しい現実に流される毎日

こうして、吉行さんは、自分の居場所を見つけようと、演劇の世界に飛び込まれたのですが、

劇団「民藝」は、舞台だけでは劇団の運営費用は賄(まかな)えず、役者が映画や広告出演で得た収入を劇団に入れて切り盛りするなど、「劇団員全員で劇団の経営を支える」というしくみだったため、

吉行さんの月給は、30歳まで、たった2万円。(現在の貨幣価値で換算しても、約7万8千円)

また、デビューこそ華々しかったものの、その後は、地味な「農民の娘」役ばかりだったそうで、 そのせいか、華やかな映画出演もそれほど楽しくなく、「もっときれいな格好をして現場に入ってくれ」と言われるほど、普段着のままでいたのだそうです。

Sponsored Link

劇団「民藝」を退団

しかし、ある時、吉行さんは、唐十郎さん、寺山修司さん、鈴木忠志さんらのお芝居を観に行かれると、

今までの芝居とは全く違う、とんでもないものが出てきたと感じました。これはなんだ?と。分からないけれど、だからこそ非常に惹かれました。

と、才能あふれる演出家の芝居に強い刺激を受けたそうです。

そして、そんな時、折よく、唐さんが脚本、鈴木さんが演出を手掛ける、舞台「少女仮面」への出演を、突然、打診されたそうで、

別世界の人たちだと思っていたその2人から手が差し伸べられ、これは新しい扉を開けるときが来た、そんな気持ちで、劇団を辞めて飛び込んだのです。

と、吉行さんは、33歳の時、ついに、劇団「民藝」を退団されたのでした。

「吉行和子の若い頃は?唐十郎の舞台で芝居に目覚めていた!」に続く

「少女仮面」出演時の吉行さん。

Sponsored Link