15歳の時に作家の吉行エイスケさんと結婚すると、その後、美容院を開業し、32歳で吉行エイスケさんと死別後は、吉行淳之介さん、吉行和子さん、吉行理恵さんの3人の子供を女手ひとつで育て上げ、98歳まで現役美容師を続けたという、吉行あぐり(よしゆき あぐり)さん。
今回は、そんな吉行あぐりさんの、若い頃からの経歴を、生い立ち、夫、再婚相手、子供などを交えて、時系列でまとめてみました。
吉行あぐりのプロフィール
吉行あぐりさんは、1907年7月10日生まれ、
岡山県岡山市の出身、
身長163センチ、
(当時の女性の平均身長は150センチくらいだったため、吉行あぐりさんは「大女 総身に知恵は回り兼ね」(「大きいから馬鹿」という意味)と言われていたそうです)
学歴は、
岡山県立第一岡山高等女学校中退
本名は、吉行安久利(旧姓・松本)ですが、1940年に、夫の吉行エイスケさんが他界された後、再婚して「辻」姓となり、2番目の夫・辻復(つじ あきら)さんが他界された後、再び「吉行」姓に戻していたそうで、
長女の吉行和子さんは、そんなお母さんについて、
吉行あぐり、として死んでいきたかったのでしょうね。でも、そういう勝手な人にかかわった義父は気の毒ですよ
と、語っています。
吉行あぐりは中学高校時代から自由奔放な女の子だった
吉行あぐりさんは、弁護士のお父さんのもとに誕生すると、あまり周囲のことを気にしない、自由に行動する女の子だったそうで、
ある時、家で下宿していた書生さんたちを引き連れ、街のメインストリートを歩いたことがあったそうですが、それが、後で、大変な噂になってしまったそうで、
吉行あぐりさんは、後に、その時のことを、
なんにも気がつかないの、そんな(噂になった)こと。(書生さんが)買い物に行くのについて来ると言うんで、じゃあ来たらというだけだったんですけれど……。
ですから、ちょっとやっぱり「総身に知恵が回りかね」ていたんでしょうね。周囲を気にしないというのは、未だにそうらしいですよ。
と、語っています。
吉行あぐりは父が急死し15歳で吉行エイスケと結婚させられていた
そんな中、吉行あぐりさんが岡山県立第一岡山高等女学校在学中、スペイン風邪が日本国中に流行すると、これにより、お父さんとお姉さんが他界してしまったそうで、
吉行あぐりさんは、1923年、15歳の時には、近所に住む、遠い親戚関係にあった、吉行エイスケさん(16歳)と結婚させられてしまったそうです。
吉行あぐりは母親に騙されて吉行エイスケと結婚していた
実は、お父さんが亡くなった後、(当時は女性が働くということがなかったため、お母さんが家計を支えることはできず)、吉行あぐりさんの一家は、急に一銭もなくなってしまったそうで、
お母さんが見えっ張りな人だったため、(外で派手なことができなくなってしまい)住んでいた家を売り、かなりのお金を手にしたそうですが、
事業を興すなどと言っていろいろな人が寄って来たそうで、その結果、お母さんは騙(だま)され、本当に一文無しになってしまったのだそうです。
(それでもお母さんは子供たちには全くそういう素振りは見せなかったそうです)
そんな中、吉行あぐりさんは、お母さんに、「学校に行かせてあげるから」と、騙されて結婚させられたそうで、
後に、インタビューで、
吉行の家とうちとは、(亡くなった)姉と吉行の母の甥との間に縁談がございまして、私の家のこともよく知っていたわけなんです。
それで母は、私をそこの不良息子(作家の吉行エイスケさん)といっしょにさせれば、と思ったんでしょうね。私は学校に行かせてもらえると思って行きました(笑)。結婚という意識は全然ございませんでした。
と、語っています。
(15歳での結婚は、当時としても普通ではなく、世間の噂になったそうです)
吉行あぐりは17歳の時に夫・吉行エイスケの後を追って上京していた
そんな吉行あぐりさんは、結婚した翌年の1924年、17歳の時に、長男(吉行淳之介さん)を出産したそうですが、
夫の吉行エイスケさんは、その直後に一人で上京してしまったそうで、吉行あぐりさんも、子供を義母に預けて後を追うように上京したのだそうです。
(義理の両親に息子を連れ戻してほしいと頼まれ、無理やり上京させられたという話も)
ただ、せっかく上京したものの、吉行エイスケさんは、作家仲間と飲み歩き、ほとんど家に帰って来なかったそうで、
吉行あぐりさんは、この時、
人間は一人一人違うんだから、旦那さんだと思って頼ってはいけない
旦那さんは好きなことをしているんだから、私もやりたいことをやろう
と、思ったのだそうです。
吉行あぐりは22歳で美容師として独立し「山の手美容院」(後に「吉行あぐり美容院」)を開店
こうして、吉行あぐりさんは、美容師になろうと思い立ち、アメリカから帰国した日本の美容師の草分け的存在・山野千枝子さんに弟子入りして修行すると、
(「生活のため」という話や、夫の吉行エイスケさんに「女性も職業をもつべきだ」と言われたという話も)
1929年、22歳の時には独立し、義父(吉行エイスケさんのお父さん)にもらった、東京市麹町区土手三番町(現・千代田区五番町)・市ヶ谷駅前の敷地に、吉行エイスケさんの友人だった村山知義さん設計による(ダダイスム建築)「山の手美容院」(後に「吉行あぐり美容院」)を開店したのだそうです。
モダンな佇まいの「山の手美容院」
ただ、当時は、女性が働くことはほとんどなく、美容師という言葉もまだなく(山野千枝子さんがアメリカから帰国して初めてできた言葉だったそうです)、
義父に、
女髪結いになるのか
と、ひどく叱られ、怖くてとても義父の顔を見ることができなかったそうです。
ちなみに、吉行あぐりさんが美容師になろうと思った理由については、はっきりしたことは不明ですが、吉行あぐりさんは、後に、インタビューで、
子供の頃に、家に髪結いさん(美容師)が来て髪を上げてくれますのね。それを眺めておりました。見るのが好きだったんですね、まあ、綺麗にできるんだなあ、でも、難しいんだろうなあって、そんな風に思って見ていたんです。
第一、その頃は鬢付け油(日本髪を結うのに使う整髪料)の匂いがひどかったものですから、綺麗だけど、とてもあんなものにはさわれないと思っておりましたの。日本髪はたいへんですよ。ええ、私は洋髪をやりましたので、日本髪はできないんです。
と、語っています。
吉行あぐりは32歳の時に夫・吉行エイスケと死別していた
そんな吉行あぐりさんは、美容師として働くかたわら、1935年には、2人目の子供(長女=女優の吉行和子さん)、1939年には、3人目の子供(次女=作家の吉行理恵さん)を出産したそうですが、
1940年、32歳の時に、夫の吉行エイスケさんが、34歳の若さで、突然、他界されたそうで、その後は、女手一つで3人の子供たちを育てたのだそうです。
吉行あぐりは37歳の時に「山の手美容院」が強制取り壊しとなり閉店を余儀なくされていた
また、1944年、37歳の時には、「山の手美容院」が建物疎開の対象となり、強制取り壊しとなって閉店を余儀なくされてしまったそうです。(戦災で消失したという話も)
(※「建物疎開」とは、空襲による火災の延焼を防ぐため、建物を取り壊して空間をつくる作業のことを言い、太平洋戦争下では全国の都市で行われたそうです)
吉行あぐりは42歳の時に再婚し、45歳の時に「吉行あぐり美容室」を再開
その後、吉行あぐりさんがどのように生計を立てていたのかは不明ですが、1949年、42歳の時には、辻復(つじ あきら)さんという人と再婚すると、
1952年、45歳の時には、中断していた、美容院「吉行あぐり美容室」を再開しています。
(「吉行あぐり美容室」は、1980年には、再開発で建てられた五番町グランドビル1階に移転しています)
吉行あぐりの晩年には連続テレビ小説「あぐり」が放送されていた
90歳の時に連続テレビ小説「あぐり」が放送されていた
その後、吉行あぐりさんは、1985年、78歳の時、美容師として働きながら、子育てに励んだ日々を綴った自叙伝「梅桃が実るとき」を発表しているのですが、
1997年、90歳の時には、これを原作とする自身がモデルのドラマ「あぐり」がNHK連続テレビ小説として放送され、大きな話題となっています。
連続テレビ小説「あぐり」より。吉行あぐりさんに扮する田中美里さんと夫・吉行エイスケさんに扮する野村萬斎さん。
98歳の時に「吉行あぐり美容室」を閉店
そんな吉行あぐりさんは、90歳を過ぎても、馴染み客限定で美容師を続けていたそうですが、2003年、96歳の時、脳梗塞で倒れて入院すると、懸命なリハビリの末、家事など、身の回りのことを一通りこなせるまでに回復するも、
2005年、98歳の時には、「吉行あぐり美容室」を閉店したそうです。
吉行あぐりの死因は肺炎(107歳で死去)
そして、2006年、99歳の時に骨折すると、車椅子生活を余儀なくされ、ほぼ、寝たきりの生活となってしまったそうで、2015年1月5日、市ヶ谷駅前・AKビルディングの自宅で、肺炎のため107歳で他界されたのでした。
ちなみに、長女の吉行和子さんは、そんなお母さんについて、
107歳まで元気に生きました。いくつもの時代、いくつもの難事を乗り越えてきた母は、あきれるくらい楽天的で、頑固者でした
と、語っています。
吉行あぐりの家系図
それでは、最後に、吉行あぐりさんの家系図をご紹介します。
1920年代より、ダダイズム、モダニズム、新興芸術派の作家として活動するも、1940年、34歳の若さで他界された、吉行エイスケ(よしゆき えいすけ)さん。 今回は、そんな吉行エイスケさんの、簡単なプロフィール、代表作、あ …