1976年、「やっとこ探偵」で小説現代新人賞を受賞して作家デビューすると、1980年には、「黄色い牙」で直木賞を受賞し、以後、作家として活動するかたわら、バラエティー番組にも数多く出演するなどタレントとしても活躍している、志茂田景樹(しもだ かげき)さん。
そんな志茂田景樹さんは、小学生時代は、絵本や児童書を日が暮れても読んでいるような読書好きな子供だったといいます。
また、高校・大学時代は、映画に夢中になったそうですが、大学卒業後、20回以上も職を転々とする中、29歳の時、虫垂炎で入院中に小説を書き始め、新人賞に応募すると、いきなり2次審査に通過したそうで、これをきっかけに作家を目指したといいます。
今回は、志茂田景樹さんの、生い立ち(幼少期)から「フリーライター」時代までをご紹介します。
志茂田景樹のプロフィールは?
志茂田景樹さんは、1940年3月25日生まれ、
静岡県伊東市の出身、
身長178センチ、
血液型はA型
学歴は、
東京都立国立高等学校
⇒中央大学法学部政治学科卒業
趣味は、ウォーキング、料理、
だそうです。
志茂田景樹の本名は?ペンネームの由来は?
志茂田景樹さんの本名は、「下田忠男(しもだ ただお)」だそうですが、ペンネームの由来は、「茂る田んぼを志す」という気持ちから名付けたそうです。
また「景樹」は昔、お父さんの書斎でよく目にしていた本に、江戸時代の国文学者である香川景樹の著作があり、その賑やかな名前が気に入って拝借したのだそうです。
(境忠雄(さかい ただお)のペンネームで活動していた時期もあったそうです)
志茂田景樹は幼い頃に戦死した兄にひらがなとカタカナを教えてもらっていた
志茂田景樹さんは、旧国鉄の職員で電気工事関係の仕事をしていたお父さんのもと、4人兄姉(兄1人姉2人)の末っ子として誕生したそうですが、幼い頃は体が弱く、15歳歳上のお兄さんが心配して何かと面倒を見てくれたそうです。
そんな中、戦局が厳しくなると、お兄さんは、1944年に召集されたそうですが、兵営に入る時が近づいてきた頃、お兄さんは、志茂田景樹さんに、カタカナとひらがなを教えてくれたそうで、
その後、旧満州(中国東北部)に動員されると、志茂田景樹さんは、お兄さんが教えてくれたカタカナやひらがなを使って一生懸命手紙を書いたそうです。
すると、お兄さんから返事が来て、そこには、(すべて、カタカナで)、
忠男(志茂田景樹さんの本名)、兄ちゃんは忠男の書いた字を見ましたよ
忠男、早く兵隊さんになって、敵の飛行機を落としなさい
と、“飛行機”を略画にして書かれていたそうで、志茂田景樹さんは、この頃、戦闘機乗りに憧れていたことから、とても嬉しかったそうです。
(ただ、小学校に入った頃に読み返してみると、これはお兄さんの本心ではなく、検閲を通るよう書いた言葉だったのだと思うようになったそうです。というのも、お兄さんが持っていた本は、ほとんどが歌集と詩集で、志茂田景樹さんが少し大きくなってからそのうちの一冊を開くと、押し花が挟まれていたほか、戦争中で物資が乏しく、紙が貴重だったのか、詩集の余白には自作の短歌などが書き残されていたそうで、お兄さんは軍国少年ではなかったのだと思ったのだそうです)
しかし、お兄さんは、1945年8月22日から23日にかけて、20歳という若さで戦死したそうで、志茂田景樹さんにとって、お兄さんからひらがなとカタカナを教えてもらったことが、二人で過ごした時間の中で、特に、忘れられない大切な思い出となっているそうです。
志茂田景樹は小学生の頃から絵本や児童書を読むことが好きだった
志茂田景樹さんは、小学生の頃から、絵本や児童書を読むことが好きで、家の廊下のみかん箱を積み上げた本棚の上に座って、ずっと本を読んでいるような子供だったそうです。
(いつの間にか日が暮れていたそうですが、暗くなっても文字が見える間はずっと本を読み続け、お母さんの「ご飯よ!」という大きな声でハッと我に返る、という感じだったそうです)
志茂田景樹の高校・大学生時代は映画に夢中だった
また、志茂田景樹さんは、高校生時代は、映画が好きで、映画研究部で部長を務めていたそうです。
そして、高校卒業後は、一浪して大学に進学すると、大学時代は、毎日、新宿の映画館に通っていたそうで、
志茂田景樹さんは、そのことについて、
私は高校の映画研究部で部長を務めていたくらい映画が好きだったから、大学へ行こうと朝電車に乗っても、新宿駅に停車すると体がソワソワしてきちゃうんです。
(新宿には新宿ミラノ座、新宿名画座、コマ劇場などの映画館がたくさんあり)当時は電車のドアが閉まるときに「ピピピピッ」と笛が鳴るのです。その瞬間に電車を降りてしまう。2本立て、3本立ても多かったので、映画館を出るとすでに暗くなっていて。
と、語っています。
志茂田景樹は6年かけて大学を卒業後は20種類以上の職を転々としていた
そんな志茂田景樹さんは、6年かけて大学を卒業すると、弁護士事務所に就職したそうですが、その後は、セールス、探偵、塾講師など、(翌日、3日、2週間で辞めた仕事も含めれば)20種以上の職を転々としたそうです。
ちなみに、志茂田景樹さんは、6年もかけて大学を卒業したため、企業に就職するという一般的なコースはあきらめ、自分で仕事を探していたそうですが、
求人誌などない時代だったため、新聞広告を見るしかなく、そこで目に入った仕事に適当に行っていただけだったそうで、嫌な人間がいれば、翌日に辞めていたそうです。
また、「頭を下げて物を売る」という姿勢がどうしても自分に合わなかったのだそうです。
志茂田景樹は29歳の時に虫垂炎で入院中に執筆した小説が2次審査を通過し作家を目指していた
そんな中、志茂田景樹さんは、保険の調査員として働いていた29歳の頃、虫垂炎になって入院したそうですが、なかなか退院させてもらえなかったため、入院中に小説を書き始め、新人賞に応募すると、いきなり、2次審査を通過したそうで、
これは3年も頑張れば賞がとれるんじゃないか
と、思い、作家を目指すことにしたのだそうです。
そして、退院後は、それならば、少しでも近い業界にいこうと、保険の調査員をやめて、出版の世界に入ったのだそうです。
また、志茂田景樹さんは、保険の調査員時代、出張する機会が多くあり、移動時間がかなり長かったため、小学校の頃の生活が戻ってきたように、読書をすることが多くなったそうで、そんな中、小説雑誌や文芸雑誌を読み、「こうして作家になる道もあるのか」と、思うようになり、作家の道を目指したとも語っています。
志茂田景樹は29歳の時にフリーライターとして活動していた
ちなみに、志茂田景樹さんは、出版業界では、フリーライターとして、「女性自身」の記者をしたり、「週間TVガイド」のアンカーライターをしたり、人気アイドルの記事を担当したそうですが、
フリーライターになったことで、貧乏生活から脱出し、順調に収入が増えていったのだそうです。
フリーライター時代の志茂田景樹さん。
「【画像】志茂田景樹の若い頃が凄い!現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
派手なヘアカラーにタイツ姿の直木賞作家として一世を風靡すると、1990年代には、バラエティ番組でタレントとしても活躍し、人気を博した、志茂田景樹(しもだ かげき)さん。 今回は、そんな志茂田景樹さんの若い頃から現在までの …