江戸時代から続いていた老舗和菓子屋の長男として誕生すると、幼い頃は、モダンなお父さんの影響で、芝居や映画に触れながら育つも、小学校3年生の時には、東京大空襲で生家が焼失したうえ、戦後には、お父さんが結核で他界してしまい、
アルバイトをしながら学業を続けるも、大学卒業後、就職はことごとく失敗し、先の見えない不安の中、自殺を考えるほど追い詰められていたという、小林信彦(こばやし のぶひこ)さん。
今回は、そんな小林信彦さんの幼少期(生い立ち)から大学卒業後の就職活動の時期までをご紹介します。
小林信彦のプロフィール
小林信彦さんは、1932年12月12日生まれ、
東京市日本橋区米沢町 (現・東京都中央区)の出身、
血液型はB型、
学歴は、
日本橋区立千代田小学校(国民学校)
⇒県立高田中学校
⇒東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)
⇒東京高等師範学校附属高等学校(現・筑波大附属高校)
⇒早稲田大学第一文学部英文学科卒業
趣味は、落語鑑賞、
ちなみに、「小林信彦」は本名ですが、ペンネームとしては、中原弓彦(なかはら ゆみひこ)、ウィリアム・C・フラナガン、三木洋、有馬晴夫、類十兵衛、スコット貝谷などを用いていたこともあったそうです。
また、イラストレーターの小林泰彦さんは弟、歌手の小林啓子さんは従姉妹です。
小林信彦が幼い頃は裕福で芝居や映画に親しみながら育っていた
小林信彦さんは、江戸時代から9代続いた老舗和菓子屋「立花屋」の長男として誕生すると、
幼い頃は、自動車の運転・修理が趣味というモダンなお父さんに、歌舞伎、寄席、芝居、映画などに連れて行かれたそうで、
特に、古川ロッパさんの喜劇に夢中になり、自宅でロッパさんの声マネをして遊んでいたそうです。
ただ、幼い頃から体が弱く、小学生の時は、虚弱児童として、校舎の地下の教室で太陽灯を浴びながら過ごしたそうです。
(※太陽灯とは、紫外線を多量に放射する太陽光線に似た高圧水銀灯で、医療や滅菌に用いられていたそうです)
小林信彦は小学3年生の時に太平洋戦争が始まり実家が没落していた
そんな中、小学校3年生の時に、太平洋戦争が始まり、1944年8月、小学5年生の時には、埼玉県入間郡名栗村へ集団疎開すると、それから約半年後には、中頸城郡新井町(現・新潟県)へ縁故疎開したそうですが、
(翌1945年の小学6年生の時には、3月10日が陸軍記念日だったことから帰京するつもりでいたそうですが、東京大空襲により、生家が焼失し、帰京することができなくなってしまったそうです)
小林信彦さんが、お父さんにしつこく東京に帰りたいと伝えて、1946年12月には東京に戻り、奇跡的に焼失せず残っていた南青山の母方の実家に住むことになったそうで、
ここで1年半ほどお世話になり、1948年5月、ようやく、生家のあった日本橋に戻って、和菓子屋をほそぼそと再開したのだそうです。
小林信彦は19歳の時に父親が他界していた
その後、小林信彦さんは、1951年に東京高師附属高校を卒業すると、早稲田大学第一文学部英文学科に進学したそうで、実家が没落し、経済的に厳しかったことから、「山本山」でアルバイトをしながら学業を続けていたそうですが・・・
1952年(小林信彦さん19歳の時)、お父さんが結核で他界したそうで、店を売り、翌年の1953年には、お母さんと弟の小林泰彦さんと3人で四谷左門町に引っ越ししたのだそうです。
小林信彦は23歳の時に「有馬晴夫」名義で短篇「白い歯車」を発表
そんな中、小林信彦さんは、大学在学中から書評や翻訳批評を手がけていたそうですが、
1955年、大学卒業直前の22歳の時には、文芸雑誌「近代文学」(1955年3月号)に、「有馬晴夫」名義で短篇「白い歯車」を発表しています。
小林信彦は大学卒業後はことごとく就職活動に失敗していた
ただ、大学卒業後は、英語教師を目指して英文科に進学したにもかかわらず、公立校の教員になることができなかったほか、就職難の中でマスコミ業界への就職も相次いで失敗し、生活苦のため、望まぬまま親類の塗料会社に入社したそうで、
鬱屈した日々を送る中、推理小説や大衆文学に没頭することで精神の均衡を保っていたのだそうです。
(小林信彦さんはお父さんを結核で亡くした後、日本橋の実家の土地も騙し取られていたのだそうです)
小林信彦は23歳の時に米兵向けの貸家会社に勤務するも25歳の時に解雇されていた
その後、小林信彦さんは、1956年6月には、横浜市中区矢口台に引っ越し、母方の親類が営んでいた米兵向けの貸家会社に勤務したそうで、
ここでは、エルヴィス・プレスリーを聴いて衝撃を受けるなど異文化に触れたそうですが・・・
会社の経営悪化と派閥争いに巻き込まれて、1958年7月には解雇されてしまったのだそうです。
小林信彦は25歳の時に先が見えず自殺を考えるほど追い詰められていた
その後は、失業保険を受給しつつ、職安に通う毎日を送っていたそうで、
生活に行き詰まりながら、1958年9月には、「大学院を受験する」と身分を偽って、池袋の学生下宿に身を寄せ、推理小説雑誌「宝石」に「雑誌の改善案」を投稿したりしていたそうですが、
将来が見えない不安の中、自殺を考えるほど追い詰められていたのだそうです。
(この頃の経験は後の創作にも影響を与えたそうです)
「【画像】小林信彦の若い頃は?現在までの代表作(小説)は?受賞歴は?」に続く
1964年、32歳の時、小説「虚栄の市」で作家デビューすると、1973年、40歳の時には、「日本の喜劇人」(1972年刊行)が芸術選奨新人賞を受賞し、2006年、73歳の時には、「うらなり」で「第54回菊池寛賞」を受賞し …