1917年、17歳の時、「ちよ」で作家デビューすると、以降、「伊豆の踊子」「浅草紅団」「抒情歌」「禽獣」「雪国」「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」「古都」など、次々と作品を発表し、

1968年、69歳の時には、日本人初のノーベル文学賞を受賞した、川端康成(かわばた やすなり)さん。

今回は、そんな川端康成さんの、若い頃から他界されるまでの代表作や経歴を時系列でご紹介します。

川端康成

「川端康成の生い立ちは?幼少期は予知能力で神童と呼ばれるも15歳で孤児になっていた!」からの続き

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川端康成は18歳の時に「ちよ」で作家デビュー

川端康成さんは、1917年3月、大阪府立茨木中学校(現・茨木高校)を卒業後、同年9月、18歳の時、文学への志を秘めて上京し、第一高等学校に入学すると、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉ほか、ロシア文学も愛読しつつ、自身でも執筆するようになったそうで、

高校在学中には、第一高等学校文芸部の機関誌「校友会雑誌」に「ちよ」(作家デビュー作)という作品を発表しています。

川端康成は21歳の時に東大生の同人誌「新思潮」を刊行し「招魂祭一景」を発表していた

また、川端康成さんは、1920年、第一高等学校卒業後は、東京帝国大学(東大)文学部に入学すると、

翌年の1921年2月、21歳の時には、同級生らと共に、東大生の同人誌「新思潮」を刊行し、「招魂祭一景」を発表しています。

川端康成は24歳の時に菊池寛創刊の「文藝春秋」に加入し編集を担当

その後も、川端康成さんは、「新思潮」に作品を発表するほか、1923年、24歳の時には、この年の1月に菊池寛さんが創刊した「文藝春秋」に加入し、編集を担当するようになったそうです。

川端康成は25歳の時に同人誌「文藝時代」を創刊し新感覚派の作家として注目を集めた

そんな川端康成さんは、1924年3月、東京帝国大学文学部を卒業すると、東京で本格的に作家活動に入ったそうで、

同年10月、25歳の時には、同人誌「文藝時代」を創刊すると、この「文藝時代」で短編小説を次々と発表し、新感覚派の作家として注目を集めたのでした。

川端康成は26歳の時に「伊豆の踊子」を発表

また、川端康成さんは、1925年には、「十六歳の日記」「孤児の感情」と、立て続けに作品を発表すると、

1926年1月、26歳の時には、高校時代の伊豆の一人旅の思い出をもとに執筆した「伊豆の踊子」を発表しています。

「伊豆の踊子」
「伊豆の踊子」より。

川端康成は30代~70代の時に代表作「雪国」「眠れる美女」「千羽鶴」「山の音」「古都」ほか

その後、川端康成さんは、30代頃からは、大学講師として教壇に立つようになったそうですが、

並行して、作家活動も精力的に行っており、

など、次々と作品を発表しています。

川端康成は62歳の時に文化勲章を受章

また、川端康成さんは、作家活動以外にも、1958年、59歳の時には、国際ペンクラブの副会長として、東西の文化の交流に貢献しているのですが、

1961年11月、62歳の時には、文化勲章を受章しています。

川端康成は69歳の時に日本人初のノーベル文学賞を受賞

そんな川端康成さんは、1963年4月、63歳の時には、「日本近代文学館」の設立に尽力しているのですが、

1968年12月、69歳の時には、

日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた

として、日本人初のノーベル文学賞を受賞したのでした。

川端康成
「ノーベル文学賞」を受賞する川端康成さん。

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川端康成は72歳の時に自ら命を絶っていた

しかし、川端康成さんは、それから3年後の1972年4月16日、72歳の時、突然、自ら命を絶っています。

ちなみに、遺書は残されておらず、川端康成さんがなぜ自ら命を絶ったのか理由は分かっていません。

「川端康成の死因は?自殺ではなく事故?三島由紀夫の割腹自決も関係?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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