1967年、33歳の時、エッセイ「われら動物みな兄弟」で作家デビューすると、以降、数多くのエッセイや小説を発表するほか、1980年、45歳の時には、テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」で、野生動物と生で触れ合う姿が視聴者にインパクトを与え、お茶の間の人気を博した、ムツゴロウこと畑正憲(はた まさのり)さん。

そんなムツゴロウさんは、幼い頃から天才的な頭脳を持っていたそうで、受験勉強せずに、東京大学理科II類に現役で合格すると、その後、大学院に進学し、アメーバや生物の研究に没頭したそうですが、

かねてからあったという文学への思いが諦めきれず、大学院の研究室を飛び出すと、その後は、「学研」で動物記録映画を制作したり、「電通」でコピーライターとして働いていたといいます。

今回は、そんなムツゴロウさんの、若い頃からの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

ムツゴロウ

「ムツゴロウ(畑正憲)の生い立ちは?幼い頃から天才的な頭脳を持っていた!」からの続き

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ムツゴロウ(畑正憲)の20代の頃

20代前半の頃は東大大学院に進学するも文学が諦められず研究室を飛び出していた

高校生の時には、数学、英語、国語、物理ほか全教科を独学(主に読書)で習得するほか、特に受験勉強をすることなく、東京大学理科II類に現役合格したというムツゴロウさんは、

両親が望んでいた医学部ではなく、自身が希望する東京大学大学院への進学を選び、アメーバーや生物の研究に没頭していたそうですが、

やがては、かねてからあったという文学への思いが捨てきれず、大学院の研究室も家も飛び出したといいます。

20代前半の頃は学研の社長に直接手紙を書いて就職していた

そんなムツゴロウさんは、その後、山谷に居つき、ギャンブルに明け暮れたそうですが、


やがて、そこで知り合った夜の仕事をしている女性に説得され、仕事を探すために夕刊を見ていると、「学研」が社員を募集しているのを見つけたそうです。

ただ、「学研」の人材募集はすでに終わっていたそうですが、「学研」の創業者で社長(当時)の古岡秀人氏に、直接、手紙を書いたそうで、就職することができたのだそうです。

20代前半の頃は学研での仕事は”神が与えてくれた職業”と思うほどのめりこんでいた

こうして、「学研」に入社したムツゴロウさんは、その後、映像部門に配属されたそうですが、”神が与えてくれた職業”と思うほどに仕事が面白く、家に帰るのも忘れるほどのめり込んだそうで、

同僚からは、「会社を休ませろ」と署名活動が起きるほど、会社で長時間仕事をしていたといいます。

ムツゴロウ(畑正憲)の30代の頃

32歳の時に「学研」を解雇されていた

そんな中、ムツゴロウさんは、1967年、32歳の時には、デビュー作「われら動物みな兄弟」という本を出版しているのですが、

「学研」の社内で執筆していたこの原稿を怪しいブローカーに渡してしまったことから、「学研」ではない別の出版社から出版されたそうで、このことが原因で、「学研」を解雇されてしまったそうです。

33歳の時に「電通」に入社するも、やがて「われら動物みな兄弟」が賞を受賞し退職

「学研」を解雇されてしまったムツゴロウさんは、その後、新しい仕事を探し始めたそうですが、その矢先、「学研」時代にお世話になった「電通」の部長と偶然再会したそうで、

その部長に誘われ、「電通」に入社すると、コピーライターとして働くようになり、ようやく、安定した収入を得られるようになったそうですが、

入社してから半年後の1968年、33歳の時、「学研」を解雇される原因となった「われら動物みな兄弟」が賞を受賞したそうで、部長から作家活動に専念することを勧められ、「電通」を退職したのだそうです。

36歳の時に北海道の無人島に移住していた

こうして、作家活動に専念するようになったムツゴロウさんは、その後、子供向けSF小説「ゼロの怪物ヌル」(1969)、「天然記念物の動物たち」(1969)、「ムツゴロウの博物志」(1970)など次々と刊行するほか、連載を多数抱える売れっ子作家となり、

1971年、36歳の時には、北海道の無人島(厚岸郡浜中町の嶮暮帰島(けんぼっきとう))に家族で移住したといいます。

36歳の時にエゾヒグマの子熊を同じ部屋で飼育していた

すると、ムツゴロウさんは、かねてより、ヒグマと暮らしたいと思っていたそうで、地元の猟師からエゾヒグマのメスの子熊を譲り受けると、「どんべえ」と名付け、同じ部屋で飼育し始めたそうですが、

最初は懐かず、何度も噛みつかれ、皮膚に穴が空いたといいます。

37歳の時にエゾヒグマの子熊の成長に伴い北海道浜中町に引っ越しを余儀なくされていた

やがて、どんべえは、成長し、大きくなったことから、1972年、37歳の時には、北海道浜中町に引っ越しを余儀なくされたそうで、どんべえを専用の熊舎で飼育することになったそうですが、

どんべえは発情期を迎えると、ムツゴロウさんに対して、目に敵意を燃やし、歯を剥(む)き、毛を逆立てて、狂った野獣のような雄叫びを上げたそうです。

これには、ムツゴロウさんも心臓が凍りついたそうですが・・・

なんと、ムツゴロウさんはパンチで応戦したのだそうです。

ムツゴロウ
ムツゴロウさんとどんべえ。

37歳の時に「ムツゴロウ動物王国」を開園

そんなムツゴロウさんは、1972年、37歳の時には、北海道浜中町で「ムツゴロウ動物王国」を開園し、どんべえだけではなく、数多くの動物を飼育しながら作家活動をするようになったといいます。

ムツゴロウ(畑正憲)は40代の時にテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が人気番組に

やがて、ムツゴロウさんのエッセイに共感した若者達が次々と訪れてきて、共同生活をするようになったそうで、1980年、45歳の時には、動物たちとスタッフたちの共同生活を追ったテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が放送開始。

すると、ライオンの頭を撫でたり、ワニの口の中に笑顔で頭を入れたり、野生のゾウと触れ合うなど、ムツゴロウさんの型破りな行動で、たちまち、番組は人気を博したのでした。

しかも、「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」でムツゴロウさんが野生動物と触れ合うシーンでは、台本が一切なく、ぶっつけ本番だったといいます。

ムツゴロウ

ムツゴロウ(畑正憲)の60代~70代の頃

63歳の時に実弟に動物虐待を告発されるも否定

そんなムツゴロウさんは、1986年には、映画「子猫物語」を制作すると、こちらも、配給収入約54億円の大ヒットを記録しているのですが、

その12年後の1998年、63歳の時には、実弟に映画撮影で動物虐待があったことを告発されています。

(ただ、ムツゴロウさん本人はこれを否定しています)

子猫物語
映画「子猫物語」の撮影風景より。

65歳の時にライオンに指を食いちぎられる大ケガを負っていた

また、ムツゴロウさんは、2000年、65歳の時には、ブラジルで、ライオンに右手中指を食いちぎられる大ケガを負っています。

(ムツゴロウさんがライオンに指を噛まれて血を流しているシーンは、ムツゴロウさん本人の意向で、そのままテレビ放送されています)

ムツゴロウ
ライオンに指を食いちぎられる瞬間のムツゴロウさん。

69歳の時に「東京ムツゴロウ動物王国」が開園するもわずか2年で経営破綻していた

そんな「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」も、2001年3月には、ついに放送が終了すると、ムツゴロウさんは、2004年、69歳の時には、東京に「東京ムツゴロウ動物王国」を開園しています。

ただ、わずか2年後の2007年11月には、経営破綻し、閉園しています。

(実際のところ、ムツゴロウさんは経営に携わってはおらず、3億円の借金を背負わされたそうですが、その後、ムツゴロウさんは借金を完済したそうです)

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ムツゴロウ(畑正憲)の死因(80代で死去)は?

82歳の時に心筋梗塞で入院していた

その後、ムツゴロウさんは、2017年、82歳の時には、心筋梗塞で入院していたそうですが、

後に、北海道中標津のログハウスで奥さんと2人で暮らしながら、自宅療養を続けていたといいます。



また、その一方で、ムツゴロウさんは、YouTubeチャンネル「ムツゴロウの656」を開設しており、全656回に渡って、自身の体験を話しています。

ムツゴロウと妻・純子
2022年5月、取材に応えるムツゴロウさんと妻の純子さん。

87歳で心筋梗塞を発症し死去

しかし、そんなムツゴロウさんも、2023年3月末頃、容態が急変すると、それから約1週間後の4月5日、自宅で心筋梗塞を発症して倒れ、午後5時53分、搬送先の病院で、87歳で他界されたのでした。

お読みいただきありがとうございました

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