1964年、32歳の時、小説「虚栄の市」で作家デビューすると、1973年、40歳の時には、「日本の喜劇人」(1972年刊行)が芸術選奨新人賞を受賞し、2006年、73歳の時には、「うらなり」で「第54回菊池寛賞」を受賞した、小林信彦(こばやし のぶひこ)さん。

今回は、そんな小林信彦さんの、若い頃(編集長時代)から現在までの代表作(小説)や経歴を時系列でご紹介します。

小林信彦

「小林信彦の生い立ちは?幼少期は裕福も戦争後は没落し苦労していた!」からの続き

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小林信彦は25歳の時に江戸川乱歩の推薦でミステリ雑誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長に抜擢されていた

25歳の時には、失業保険を受給して、職安に通いつつ、身分を偽って池袋の学生下宿に身を寄せ、推理小説雑誌「宝石」に投稿していたという小林信彦さんですが、

1958年、26歳の時、失業保険が切れる寸前に、推理小説雑誌「宝石」に投稿していた「雑誌改善案」が評価され、宝石社の顧問に採用されると、

(ただ、お給料は格安の5000円だったそうです)

翌年の1959年1月には、江戸川乱歩氏の推薦により、創刊予定のミステリ雑誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長に抜擢されたそうです。

小林信彦は26歳の時に短編「消えた動機」で商業誌デビュー

また、小林信彦さんは、ペンネーム「中原弓彦」で作家活動も始めると、

同年(1959年)には、「宝石」2月号に発表した、短編「消えた動機」で商業誌デビューを果たしています。

小林信彦は31歳の時に「宝石社」を解雇されていた

そんな小林信彦さんは、星新一さんや筒井康隆さんの初期作品を積極的に紹介し、日本にショート・ショート(小説の中でも最も短い作品)文化を根付かせたほか、

薄給で不安定な立場だったことから、生活費の補填と宣伝のためにテレビやラジオにも出演するようになると、人気を博し、一躍、時代の寵児となったのですが・・・

1963年には、社内対立により、解雇されてしまったのだそうです。(表向きは自主退職)

(この時の裏切り体験は、「疎開経験」「実家の土地を騙し取られた体験」と共に、小林信彦さんの作品に繰り返し登場するテーマ「信頼の喪失(信じていた者に裏切られる)」となり、小説「夢の砦」などにも反映されています)

小林信彦は32歳の時に長編小説「虚栄の市」で作家デビュー

それでも、小林信彦さんは、1964年、32歳の時には、「中原弓彦」名義で、初の長編小説「虚栄の市」で作家デビューすると、

  • 1965年には、「汚れた土地」
  • 1966年には、「冬の神話」

などを発表し、直木賞候補に複数回選出されたのでした。

(残念ながら、受賞とはなりませんでした)

小林信彦は38歳頃テレビやバラエティ番組制作に携わっていた

また、小林信彦さんは、1970年代始めには、作家活動のかたわら、テレビやバラエティ番組制作にも携わったそうで、

日本テレビのプロデューサー・井原高忠さんに誘われ、坂本九さんや植木等さんらの番組制作に参加していたそうです。

小林信彦は74歳の時には著書「うらなり」で菊池寛賞を受賞

そんな小林信彦さんは、1973年には、ノンフィクション「日本の喜劇人」(1972年刊行)が「芸術選奨新人賞」を受賞すると、

以降、

などの作品を次々と発表し、

「丘の一族」「家の旗」「八月の視野」が芥川賞候補に選出されるほか、「うらなり」で第54回菊池寛賞を受賞しています。

小林信彦は84歳の時に脳梗塞になっていた

しかし、小林信彦さんは、2017年、84歳の時、自宅で脳梗塞を起こし、左半身不随になってしまったといいます。

それでも、懸命なリハビリの末、約半年後には執筆を再開したそうですが、今度は、骨折で入退院を繰り返したそうで、

「書けるうちに書いておこう」との思いから、1998年から20年余り続いた週刊文春の連載「人生は五十一から」(後に「本音を申せば」に改題)を、リハビリの合間を縫って、2021年夏に完結させたのだそうです。

また、小林信彦さんは、2022年には、脳梗塞で倒れた体験を綴ったエッセイ集「生還」を刊行しています。

小林信彦の著書(小説)

それでは、最後に、小林信彦さんの主な著書(小説)をご紹介しましょう。

ほか、数多くの書籍を発表しています。

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小林信彦の受賞歴(候補も含む)

また、小林信彦さんは、

と、数多くの作品で、受賞及び受賞候補に上がっています。

「小林信彦の妻は?子供は娘が2人!妻も次女も編集者!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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