当時、女性としては珍しく、大学を卒業して教師をし、その後、出版社に勤務するなど、とても優秀だったお母さんの教訓とは裏腹に、中学時代にはブスということを理由に壮絶なイジメに遭うも、自ら克服したという、林真理子(はやし まりこ)さん。そんな林さんは、その後、就職に際しても、逆境の中、自ら道を切り開いていったといいます。
「林真理子の生い立ちは?中学で壮絶なイジメに遭うも自力で脱出していた!」からの続き
就職活動は40社以上不採用
中学時代、壮絶なイジメに遭うも、高校受験を機に自力で脱出した林さんは、その後、日本大学に進学し、やがて、就職活動の時期となったそうですが、
中学時代、本の中の世界で妄想することだけが、唯一の楽しみだった林さんは、出版社への就職を希望していたそうですが、いざ、就職活動をスタートすると、希望していた出版社はおろか、どの業種の試験も全て不採用だったそうです。(その数40社以上)
有名になった時のために不採用通知の束をリボンでくくり宝物にしていた
しかし、めげない林さんは、いつか自分が有名になった時に、取材に来た人に、
あなたの会社も落ちちゃって-
と、笑いながら見せるため、その全ての不採用通知をまとめた束をリボンでくくって宝物にしていたそうで、
植毛クリニックで、植毛の糸を注射針に入れていくアルバイトを2年以上するなどしなから、4枚40円の食パンで食いつなぐ、極貧の日々を過ごしたのだそうです。
糸井重里に師事しコピーライターになるも・・・
こうして、美貌も、コネも、お金もない現実をつきつけられながらも、根拠のない自信だけは持ち続けていたという林さんは、やがて、当時、花形の職業だったコピーライターになろうと、一念発起。
そこで、糸井重里さんのコピーライター講座を受講すると、授業ではいつも最前列に座り、課題では人と違う回答を出し続けたそうで、ついには、糸井さんの目にとまり、事務所の電話番として採用してもらうことができたそうです。
そして、その後は、当時、秋山道男さんが編集していた「西友ストア」のPR雑誌「熱中なんでもブック」(後に「青春評判ブック」)の編集スタッフとなり、
1981年には、西友ストア向け広告コピー「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる。」で「TCC(東京コピーライターズクラブ)」の新人賞などを受賞されるのですが・・・
最終的には、糸井さんから、
コピーライターは100のものを1にする仕事だが、林さんは1のものを100にするほうが得意だから
と、いう理由で、
コピーライターには向いていない
と、言われたのだそうです。
「林真理子のデビューからの著書とTVドラマ映画化作品を画像で!」に続く
コピーライター時代の林さん。